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信念なき地方自治、首長は「ホラ吹いてもウソつくな」【前編】

5/25(木) 18:05配信

オトナンサー

「なにくそ、負けてたまるか」が信条

 人口が61年間、増え続けている、神奈川県最小の町・開成町の発展の土台を作ったのは、1963年から83年まで町長を務めた、私の父・露木甚造でした。父のモットーは「ホラは吹くがウソはつかない」で、周りの人たちからは「ほら甚」と呼ばれていました。

 開成町の農家の親父さんたちには、理解が及ばないような大風呂敷を広げ、いわばけむに巻いていたのでしょう。4回目の町長選が終了した後、父は地元紙のインタビューで、それまでに歩んできた町政と展望について語っています。ほら甚の異名通り、ホラを吹いて町政を担ってきたことがよくわかるインタビューです。

 開成町は1960年代前半まで、水田しかないといっても過言ではない、純然たる農村でした。新宿と小田原を結ぶ小田急線の線路は通っていましたが、駅はありません。そのような状況下でも、父は「開成町に新駅を誘致して、足柄平野で小田原に次ぐ都市にする」と大見得を切っていました。

 1955年に2つの村が合併して開成町ができた時、人口はわずか4600人。「豆粒」のような町のトップの口から発せられる言葉は、夢物語と受け取られていたに違いありません。軍人育ちの父は「なにくそ、負けてたまるか」が信条でしたので、内心は切歯扼腕(せっしやくわん)だったはずです。

大風呂敷の背後にあった、不退転の戦略

 しかし、父には戦略と戦術がありました。ホラを単なるホラで終わらせ、ウソにしないための算段を考えていたのです。町長就任のわずか2年後、東京五輪が終わった翌年の1965年のこと。都市計画法が制定され、日本で初めて都市計画に基づいた計画的なまちづくりが全国展開されました。市街化区域と市街化調整区域に分割して、まちづくりを計画的に進めることで乱開発を防ごうというものです。

 父は、事実上水田しかない開成町の全町域を都市計画区域に編入すると宣言し、断行しました。建設省(当時)の規準では、都市計画設定の条件は人口1万人以上でした。1万人未満ではとても対応できない、と見ていたに違いありません。ところが父は、6000人強の町の都市計画区域編入を建設省に認めさせたのです。普通は、相手にされないはずですが、並々ならぬ気迫で押しまくった結果だと思います。

 全町域の都市計画編入が決定された1965年12月の「広報かいせい」の記事が、これまた驚くべき内容です。全町域が都市計画区域に編入されたので、「理想的な田園都市の建設を推進する」と宣言した上で、「強い規制が住民の方に直接関係します」と述べて、強引に協力を要請しています。この記事を見て私は仰天しました。

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最終更新:5/25(木) 18:05
オトナンサー

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