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【ロンドン・サブカル盛衰史】ジーン・クレールのカルチャーメモ

5/26(金) 12:11配信

GQ JAPAN

ジーン・クレールの「Notes on Culture」。“ノーツ・オン・カルチャー”とはつまり、カルチャーに関する覚え書きという意味。旅や食、ファッション、アート、太極拳まで、ジーンの幅広い関心事のなかから、毎月ひとつのトピックを選び、エッセイ形式でお届けする。3回目となる今回のテーマは、ロンドンだ。

第4話:ボクサーたちの光と影

そう、あれは一目惚れだったのだ。私とロンドンの関係は恋だった。

初めて訪れたのは1967年。ビクトリア駅にほど近いタッチブルック・ストリート48番地にあった安いワンルームのアパートに寝泊まりした。家賃は週に50ドル。ゲイルという若いアーティストとの相部屋だった。時代はモッズムーブメントが終わろうとしている頃だったが、私はまだそんな服装をしていた。丈の短いツイードジャケット、ハッシュパピーの靴、タブカラーのシャツ、スリムなクロップドパンツ。音楽はスモール・フェイセスやパープル・ハーツ、後にザ・フーとなるハイ・ナンバーズなどを聴いていた。クラブの雰囲気はひたすら刺激的で、この時代は人生の中で最高の時のひとつと言えると思う。

やがて私はロンドンに住むことになり、小さな店に関わった。ウルトラモッドと呼ばれた、当時の多くのポップスターが身につけていた派手なアイテムを売る店だ。

そのうちにファッションと音楽は進化をとげ、グラム・ロックの時代となる。ゲイリー・グリッター、マーク・ボラン、アルヴィン・スターダスト、そしてもちろん故デヴィッド・ボウイ(正確を期せば、彼は自分だけで一つのジャンルをなしていたが)。

その後、マルコム・マクラーレンが登場した。ロックンロールとテディ・ボーイの復活だ。テディ・ボーイの服装はドレープスと呼ばれたロングジャケットにストーブパイプ・パンツ、足元はかの有名なブローセル・クリーパー。この靴は踊るのに最適だった。

これと並行して、ヒッピーが大きな存在感を示していた。イングリッシュ・ヒッピー(と、あえて言わせていただく)はアメリカのヒッピーよりもずっとスタイリッシュだった。

そして登場するパンク。彼らはどちらかと言うと反ヒッピー的だった。髪を逆立て、ボンデージのパンツをはき、破けた服を安全ピンで留めていた。クラッシュ、セックス・ピストルズ、ダムドといったバンドを聴きながら、ポゴという跳びはねるようなダンスを踊っていたものだ。その呼び名は遊具のポゴスティックから来ていると思う。

ロンドンのサブカルチャーのなかでパンクが最もダイナミックで知名度の高いものであったことを否定する人はいないだろう。しかし周知のとおり、サブカルチャーは時代ごとに生まれるものであり、パンクが表現したような攻撃性にもやがて疲れてしまう。そこで生まれたのがニュー・ロマンティックの時代だ。ロンドンが生み出した大きなサブカルチャーとしては、これがおそらく最後のものとなるだろう。バンドとしてはバウ・ワウ・ワウやデュラン・デュランがそうだ。ファッションは派手で、流行っていたクラブは「タブー」に「チャチャ」、それから「ブリッツ」。この頃はデヴィッド・ボウイもニュー・ロマンティックというジャンルに属していて(私もそうだった)、輝かしい時代だった。毎晩ドレスアップしていたものだ。

これらのムーブメントを育てたのは常にロンドンという街だった。思うに、特に労働者階級の場合、多くの面で自分の生きる環境や世界を自分で作り出す必要があったというロンドンの事情が大きく働いているのではないだろうか。サブカルチャーとは現実からの逃げ場、最も安心できる家のような存在、そして自分を若く強いと感じることができる場所だった。

私にとっては特別な時間、私という人格を形づくるのに大いに助けとなった時間だった。数々の出会いがあり、多くを学んだ。これを仲間たちに、そして次の世代へと受け渡していければと思っている。今、私はすべてを読者諸兄にお伝えした。ぜひ携帯電話の電源を切って、ロンドンのビートに耳をすませてみてほしい。

Gene Krell

最終更新:5/26(金) 12:11
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