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女の情念がたぎり、「普通の家庭」がゆっくりと壊れてゆく

5/29(月) 6:15配信

Book Bang

 結婚して、子供を産み、育て、家庭を作ってゆく。そんな普通の暮しを営むことが、実はどんなに大変なことであるか。世には、脇道に逸れて、普通から遠く離れていってしまう女性がいかに多いか。

「立場茶屋おりき」「便り屋お葉日月抄」シリーズで知られる時代小説作家、今井絵美子初となるこの現代小説には、三人の、タイプの違う女性が登場する。

 水商売で暮しを立て、男から男へと性に溺れるままに生きる母親の登勢。その母親への反発から、普通の暮しに憧れ、夢かなって実直な会社員と結婚し、つましい生活をしながらやっとマイホームを持つことが出来た娘の千歳。さらに、千歳より十五歳年下になる、父親の違う、美しい妹のユキ。

 三人の女性たちの三様の生き方が描かれてゆく。三人の性格分けが面白く、みごと。それぞれに魅力がある。

 舞台となるのは、広島県の福山市。戦後、大工場が次々に建ち、工業地帯として発展した広島県の中核都市である。ちなみに、その発展してゆく福山の姿は、山田洋次監督の「家族」(一九七〇年)にとらえられている。一九七五年には、山陽新幹線が開通し、福山駅も開設される。

 物語は、急速に発展する町を背景にしている。経済成長は人の暮しを激変させる。人の心もむしばむ。女性たちを、地方都市に置くことによって、生活感を出している。

 母親の登勢は、真面目な娘の千歳から見れば、だらしない女性である。千歳が子供の頃には、しばしば家に男を連れ込んだ。妹のユキが生れてから、育児もせず、娘の千歳にユキの世話をさせた。千歳が母親を嫌い、二十歳の時に家を出て独り立ちしようとしたのも無理はない。

 この家族は、現代風にいえば、格差社会の底辺にいる。千歳の父親は、家具職人だったが腫瘍のため右腕を失い、仕事が出来なくなった。母親は「おまえはヒモなんだよ」とののしった。そのため父親は幼ない千歳を残し、家を出、その後、消息不明になった。

 戦後、千歳は貧しさのなかで育った。中学しか出ていない。染色工場の事務員として働いたが、中卒の劣等感に悩まされた。だから、同じ会社の伸幸に求婚された時は、うれしかった。これで「普通」になれる。

 伸幸が会社に持ってくる、母親の作った弁当の中身――玉子焼、塩鮭、菠薐草のお浸し、ウィンナーソーセージなどを見て、千歳が「あれが家庭の味なのだ」と羨ましく思うのは切ない。普通の家庭に憧れる千歳の気持が伝わってくる。

 妹のユキは美しい娘に成長する。そのために母親の新しい男に手ごめにされそうになる。しかも、母親はそれを承知していた。家庭のなかの修羅場に傷ついたユキも、家を出る。千歳のマイホームに転がりこむ。

 千歳と伸幸のあいだに子供はない。そこに若く美しいユキが暮すようになる。そうなれば、どうなるかは決まっている。千歳が、ようやく手に入れた「普通の家庭」がゆっくりと壊れてゆく。千歳の住む家は、福山市内を流れる芦田川の河口にある。河口近くの山を切り崩して造られたニュータウンである。夢のわが家は、造成地に建つもろいものだった。

 千歳が「暮し」を大事にする女性なのに対し、妹のユキは「愛情」を生きる力にしている。才能ある画家のモデルになり、その画家に恋心を抱く。画家のかつてのモデルが、烈しい愛ゆえに自殺したと知り、自分も恋に身をこがす。さらに、千歳の夫、伸幸とも関係し、その恋情の深さのために、ついに若い命を絶ってしまう。

 二人の母親の登勢は娘二人より、たくましい。確かにだらしなくはあるが、戦後の貧しい混乱期、身体を張って生きてきた強い女であることは間違いない。開き直った強さがあるから五十歳を過ぎても、若い男に愛されるのだろう。千歳の「普通の家庭」への夢は、ユキの凄絶な愛情と、登勢のたくましさによって鍛えられてゆかなければならない。

[レビュアー]川本三郎(評論家)
1944年、東京生まれ。文学、映画、東京、旅を中心とした評論やエッセイなど幅広い執筆活動で知られる。著書に『大正幻影』(サントリー学芸賞)、『荷風と東京』(読売文学賞)、『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞・桑原武夫学芸賞)、『白秋望景』(伊藤整文学賞)、『小説を、映画を、鉄道が走る』(交通図書賞)、『マイ・バック・ページ』『いまも、君を想う』『今ひとたびの戦後日本映画』など多数。訳書にカポーティ『夜の樹』『叶えられた祈り』などがある。最新作は『物語の向こうに時代が見える』。

KADOKAWA 本の旅人 2017年4月号 掲載

KADOKAWA

最終更新:5/29(月) 6:15
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