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ハリルJ最大のサプライズ。J1未経験の加藤恒平、“非メジャー国”経由選手の先駆者に

5/30(火) 12:03配信

フットボールチャンネル

 25日、6月の試合に向けた日本代表メンバーが発表され、ブルガリアでプレーする加藤恒平が初めて代表チームに招集された。J1でもヨーロッパ主要リーグでもプレー経験を持たないMFの選出はまさしくサプライズと言える。エリート揃いの代表チームにあって、異色の経歴を歩んできた加藤。ハリルジャパン入りを果たした今でも、視線は未来を向いている。(取材・文:藤江直人)

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●無名の27歳が突然浴びたスポットライト

 申し訳ないと心のなかで頭を下げながら、加藤恒平はベッドで横になることを選択している。千葉県内で行われている海外組だけによる日本代表合宿は、2日目の5月29日からは二部練習が組まれている。

 午前、午後ともに約1時間半。午前中はランニングを中心にたっぷりと体をいじめ、午後もフィジカルトレーニングがメインで進められ、途中からようやくボールを使ったメニューが加わってくる。

「自由な時間はあるんですけど、昼寝をするとか、夜も夕食を食べ終わるとなんやかんやで9時を過ぎるので。毎日の練習が厳しいので、翌日に備えてゆっくり休むようにしています」

 日本人には馴染みの薄い、ブルガリア1部リーグのPFCベロエ・スタラ・ザゴラでボランチを務める無名の27歳が、それまではおよそ縁のなかった眩いスポットライトを浴びたのは25日だった。

 シリアとのキリンチャレンジカップ2017(6月7日・味の素スタジアム)、イラク代表とのワールドカップ・アジア最終予選(同13日・テヘラン)に臨む日本代表メンバーに大抜擢された。

 都内で記者会見に臨んだ日本代表のヴァイッド・ハリルホジッチ監督が、「ほぼ1年をかけて追跡してきた」と強調しながら加藤のプレースタイルを説明したことで、注目度はさらに高まった。

「スタッフが4回ほど現地へ行って彼を見ている。ボールを奪う人という役割だ。少し(山口)蛍に似ているが、しっかり組み立てることもできる。次のプレーの予測とアグレッシブさのレベルが高い選手だ」

 発表されたときは機上の人だった加藤は、一夜明けて羽田空港に降り立つとシンデレラボーイになっていた。スマホにはそれこそ数え切れないほどのLINEの祝福メッセージが届いていた。

「実はまだ返し切れていないんです。やっぱり体が疲れているので。まずはコンディションを優先させて、ちょっとずつ返信していければいいなと」

 一通ずつ、感謝の思いを込めて返したい。それでもいまは、生き残りをかけた日々に万全の状態で臨みたい。加藤の律儀な性格が、申し訳なさそうに苦笑いを浮かべる姿からも伝わってくる。

●アルゼンチンではビザが発給されず。練習生から町田入り

 小学校を卒業した2002年3月に、和歌山県新宮市内の実家を自らの意思で離れた。母方の祖母が住む千葉県に移り、ジェフユナイテッド千葉のアカデミーに入団して将来のプロを夢見て心技体を磨いた。

 ジェフのU‐18でプレーしていた2006年に、ジェフのチーム統括本部長に就任。いま現在はFC町田ゼルビアのゼネラルマネージャーを務める唐井直氏とは、いまも太い絆で結ばれている。

 ジェフでトップチームに昇格できなかったが、進学した立命館大学で海外志向が膨らんできた。将来はスペインでのプレーを希望したうえで、まずは南米アルゼンチンへ夢を成就させるための第一歩を求めた。

「いきなりスペインへ行っても無理だと思ったので。調べたらアルゼンチンはスペイン語圏であり、当時はヨーロッパへ一番多く選手を輩出していたので」

 3年生の夏に初めて渡ったが、けがで帰国を余儀なくされた。ならばと、体を完治させ、卒業に必要な単位をすべて取得したうえで、4年生になった2011年には腰をすえて現地で武者修行に励んだ。

 それでもビザが発給されなかったことで、再度の帰国を選ばざるを得なかった。大学も卒業する加藤はプレーする場所を求めて、ゼルビアでゼネラルマネージャーを務めていた唐井氏に連絡を入れた。

 ゼルビアに練習生として迎え入れられた。生計の足しにするために、練習後にはゼルビアのスクールコーチとして子どもたちを指導した。毎日のようにアパートと練習場、スクールを自転車で移動した。

 風向きが変わったのは2012年の3月下旬。初めて昇格したJ2を戦っていたゼルビアはけが人が続出。加藤の入団が急きょ決まった。当時の公式リリースには、初々しいコメントが綴られている。

「この時期にチームに加えてもらえることができて、感謝の気持ちでいっぱいです。何不自由なくサッカーをできることの喜びを噛み締めながら、日々、努力していこうと思います」

●抱き続けているゼルビアへの感謝

 シーズンの中盤からは当時のオズワルド・アルディレス監督の眼鏡にかない、レギュラーに抜擢される。アルゼンチンでサイドから転向したボランチではなく、手薄だった最終ラインで順応力の高さを発揮した。

 しかしながら、チームは最下位でJFLへの降格が決まる。巻き返しを誓う2013シーズンへ。ゼルビアのフロントは必要不可欠な選手として、加藤に契約延長のオファーを申し出てきた。

 ようやく自分の居場所ができた、という思いはあった。しかし、それ以上に高いカテゴリーで、もっといえば海外でプレーしたいと望むもう一人の自分がいた。年が明けても、加藤は悩み続けた。

「もともと海外志向が強かったんですけど、さすがにあのときはすごく迷いました。チームを落としたままで出て行っていいのかと。最終的には自分が海外に行って何かいい報告ができれば、それが町田のファンへの最高の恩返しになると思いました。返事が遅くなって、すごく迷惑をかけてしまったんですけど」

 ゼルビアとしても、新体制を早く固めたかった。それでも加藤の思いを尊重して、年が明けても待ってくれた。最終的には退団を受け入れ、背中を押してもらった恩はいまも忘れていない。

 だからこそ、その後もヨーロッパのシーズンがオフとなり、帰国するたびに唐井氏に連絡を入れた。今回は日本代表選出の報告も兼ねた連絡となった。ゼルビアの関係者全員が喜んでくれた。

「本当に胸が痛んだし、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。やっぱりゼルビアは僕にとって特別なクラブなので。プロとしてのキャリアをスタートさせてもらい、試合にも出させてもらったうえに、その後もずっと応援していただいた。本当にありがたい思いでいっぱいです」

●「上手ければもっといい環境でサッカーができる」

 所属チームのない浪人を覚悟でゼルビアを離れた。そのときに出会い、海外で腕を磨いて将来は日本代表に入りたい夢を打ち明けた代理人から、モンテネグロでのトライアウトを勧められた。

「最初はモンテネグロがどこにあるのかも、サッカーやっているのもわかりませんでした。まったく知識がありませんでしたけど、サッカーをやらないことには始まらないので」

 再び海を渡るときに抱いたのは、はい上がってやるという決意と、メジャーと呼ばれる国でプレーしていなくても結果を残し、A代表に抜擢される第一号になってやるという野望だった。

 モンテネグロのFKルダル・プリェヴリャからステップアップを志し、オーストリアのチームのトライアウトを受けるも失敗した。お金がないからと帰路はバスを乗り継ぎ、約30時間をかけて戻ったこともある。

 FKルダル・プリェヴリャでは2年間プレー。2年目は1部リーグ制覇に貢献して、ベストイレブンにも選出された。ポーランド1部のTSポドベスキジェ・ビェルスコ=ビャワに移るも、チームは2部へ降格する。

 もっとも、加藤自身は奮闘し、そのプレーが評価されていま現在のベロエに移った。いまでは英語とスペイン語を話し、モンテネグロ語、ポーランド語、ブルガリア語も日常生活にはほとんど困らない。

「いままで続けてこられたのは、単純にサッカーが好きだった、ということだと思います。もっと上手い相手と戦いたいと思いますし、何よりも自分自身がもっともっと上手くなりたかった。たとえどんなに辛いことが起きても、もし自分がいい選手ならばそういう経験はしなくて済むわけじゃないですか。

 上手ければもっといい環境でサッカーができるし、もっといいスパイクを履くこともできる。でも自分が下手だからこういう環境にいて、こういう待遇を受けているとずっと言い聞かせてきました。じゃあどうすればいいかとなったときに、自分が上手くなるしかないなと」

●自身の価値を高め、さらなるステップアップへ

 這い上がっていく過程で、大切なことを見つけた。異国の地において一人でサッカーをするなかで、自分が「加藤恒平」でいられるための、必要不可欠な思考回路と表現してもいいのかもしれない。

「国が違えばその国の独特のサッカーがありますし、住んでいる人々のキャラクターも違いますし、食事もすべて違う。そのなかで自分がどういられるかというのが大切で、自分をもっていないとすぐに挫折してしまう。人間としての成長を、海外でサッカーをやることによって果たせたのかなと。

 ぶれないというより、あまり人に興味がないというか。悪い意味でとらえられるとちょっとあれなんですけど、あまり人がやっていることを気にしないというか、自分がどうありたいかというのを自分のなかではすごく大切にしていて、そうじゃないと、いろいろな国に行っていないと思うので」

 そうした考え方は、抜擢されたハリルジャパンのなかでも力強く脈打っている。ドイツやイングランドなどで活躍するチームメイトたちの立ち居振る舞いを見て、再確認させられたと言っていい。

「自分をしっかりもっている選手が、この場所には集まってくる。その意味ではヨーロッパの厳しい環境で4年間やってきて、あらためてよかったと思います」

 もっとも、ここがゴールじゃない。むしろ、さらに大きな夢へのスタート。電話で感謝の思いを伝えた唐井氏からも、抱いている野心をずばりと指摘された。

「喜んでくれましたけど、唐井さんも僕の性格を知っているので。ここで多分満足しないだろう、と言われましたし、試合に出られるように頑張れと激励されました。代表に入ったからといって、急に上手くなるわけではない。いままで通り、自分がやってきたことをピッチで出せるようにしたい」

 ベロエとの契約はまだ1年残っているが、いいオファーがあればそれを優先してもいいと温かい言葉をかけられてもいる。現在、代理人がさらにステップアップできる環境を探している。

 その過程で迎える日本代表戦でピッチに立てば、さらに自分自身の価値を高めることができる。イラク戦の翌日に28歳になる苦労人にとって、緊張と興奮を交錯させているハリルジャパンでの日々は、将来をかけたチャレンジの舞台でもある。

(取材・文:藤江直人)

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