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イチロー選手はもう安打数で評価する領域を超えている - 冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代

6/1(木) 17:00配信

ニューズウィーク日本版

<ベルトレ選手(テキサス・レンジャーズ)の3000本安打達成が見えてきた今、イチロー選手の記録が抜かされることを心配する日本メディアもあるが、そのような比較はもう意味がない>

テキサス・レンジャーズで、ダルビッシュ有投手のチームメイトである、エイドリアン・ベルトレ選手といえば、通算445本塁打という長距離砲でありながら、ゴールデングラブ賞5回の好守を誇っています。現役選手というだけでなく、近代野球における最高の三塁手という評価がされても過言ではない名選手です。

そのベルトレ選手ですが、右足の故障で開幕以来故障者リスト(DL)に入っていたのが、5月29日に復帰しました。ベルトレ選手は、昨季までの安打数が2942で、復帰直後の3試合でもヒットを打っており、今季中の3000本安打到達は完全に視野に入ってきたと言えます。

3000本安打に加えて、450本塁打は間違いない以上、引退後の野球殿堂入りは確定していると言って良いでしょう。一方で、達成した数字の割にはまだ若く38歳です。19歳でMLBデビューし、20歳でドジャースのレギュラーになってフルで活躍しているからです。ですから、キャリア的には超ベテランですが、まだまだ数字を積み上げる可能性はあります。

そこで一部の日本のメディアでは、「イチロー選手の安打数」との比較が始まっているようです。現在のMLBを代表する野手と言って良い、この2人の選手のうち、まずイチロー選手が3000本安打に到達したわけで、その「仲間」としてベルトレ選手が到達するという形で取り上げているのであれば、まだ良いのですが、比較というのは別の意味が込められているのです。

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というのは、「現役通算安打のランキング」で、イチロー選手がベルトレ選手に「抜かれてしまう」という一種の悲観報道があるのです。「イチロー、安打一位ピンチ」といった種類のものです。イチロー選手は5月31日現在、3042安打で、ベルトレ選手が2945ですから「その差は97」です。「準」レギュラーとして出場機会が限られ、また今季は決して好調ではないイチロー選手に対して、三塁のレギュラーに復帰したベルトレ選手がヒットを量産すると、「逆転は時間の問題」だというのです。

しかし、そんな心配はするべきではないと思います。

まず、イチロー選手に声援を送る際に、他でもないベルトレ選手に「通算安打数を抜かれたくない」という感情を込めるというのは、私には強烈な違和感があります。というのは、この両者には不幸な過去があるからです。



ベルトレ選手は、20代前半にドジャースで不動のレギュラーを獲得したばかりか、2004年には弱冠25歳で49本を打ってNLの本塁打王に輝いています。ただ、ドミニカ出身という強烈なプライドを持っていたベルトレ選手は、人種を巡るコミュニケーションの問題もあって、ドジャースでの居心地は必ずしも良くなかったと言われており、契約更新にあたって巨額の長期契約を申し出たシアトル・マリナーズに移籍したのでした。

そこで、イチロー選手とベルトレ選手は同僚になります。この頃のイチロー選手は不動の1番バッターで、ベルトレ選手は3番を打つことが多かったようです。前年にホームラン49本を打っているだけに、シアトルでは若き長距離砲に大きな期待がかかりました。ところが、この年、ベルトレ選手は絶不調に陥ります。打率は.255で、ホームランは19本、打点が89というのは、自他共に「ガッカリ」の結果でした。

チームの成績も69勝93敗でAL西地区の4位、実はこの時期AL西地区は4チームしかなかったのでダントツの最下位でした。ちなみに、イチロー選手は前年に「メジャー最高記録の年間262安打」を打っており、ある意味で絶頂期であったのですが、この2005年には、同じように厳しいスランプを経験しています。打率は.303で辛うじて3割、ヒット数も206で「連続200本」というのが期待される中で苦しみながらの達成だったのです。

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こうした結果について、ベルトレ選手はシアトルの地元メディアなどで、何度かイチロー選手を批判していました。「四球を選ばないので1番バッターとしては出塁率が低すぎる」「おかげでチームの勝敗に影響が出ている」「自分に関して言えば1番に塁に出てもらわないとチャンスが回って来ない」とかなりハッキリした物言いだったのを記憶しています。

ここからは私の憶測ですが、イチロー選手も苦しかったのだと思います。前年の262という数字に「日本のメディアが大喜び」してしまったために、そして「連続200本」というのをあらためて義務付けられてしまったためのプレッシャーに加えて、おそらくは「安打数を稼ぐためには四球を選べない」ことの苦しさに、引き裂かれるような思いをしていたのではないかと思います。

イチローとベルトレが同時に不調だったことは、単にベルトレ選手がイチロー選手を批判しただけでなく、強烈なプライドと真剣さを持っている一方でプレイスタイルの異なる両者が「お互いを気にしすぎてスランプに陥った」可能性も否定できません。



さらに憶測を重ねるのであれば、この両者について、本人同士はどこかで和解をしているのではないかと思います。2人の野球と人生に取り組む姿勢から見て、私は個人的にそんな感触を持っています。

そんなわけで、いくらイチロー選手を応援したいからといって、「現役最高安打数」でベルトレ選手にイチロー選手が抜かれそうなのは「残念だ」というニュアンスでイチロー選手を応援するというのには、違和感を覚えずにはいられません。

イチロー選手は長く栄光に満ちた、しかし同時に苦しみも多かった現役生活の最後の段階に来ていることは否定できません。今は、マーリンズの同僚たちも、そしてマッティングレー監督も、そして、マイアミのファンたちも、ベンチにいていつでも出場できる準備を怠らないイチロー選手の野球に取り組む姿勢と存在感に、それだけで熱い畏敬の念を抱いているのです。

それで十分であり、この期に及んで「1本でも多く打って、少しでもベルトレ選手に抜かれるのを遅らせて欲しい」などと求めることは、私にはとてもできません。試合に出場しても、出場しなくても、イチロー選手の誠実で真剣な生き方そのものを、アメリカの野球ファンは深く理解しています。すでに「誰かとの比較というのは無意味な領域」にこの不世出の天才は入っているのです。

冷泉彰彦

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