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あふれ出るアニメ本来の魔法の力ーー湯浅政明監督『夜明け告げるルーのうた』の真価を探る

6/3(土) 14:00配信

リアルサウンド

 「生命を吹き込む魔法」(“The Illusion of Life“)という言葉がある。ディズニーの黎明期を支えたという伝説的アニメーターたちが生み出した、絵がまるで生きているように見せるアニメーション技術をまとめ、80年代にアメリカで出版された書籍のタイトルだ。まさにアニメーションの本質とは生命であり、それを作り出す魔法であると思う。

 「天才アニメーション監督」と呼ばれ、『マインド・ゲーム』や『四畳半神話大系』など、有機的でサイケデリックな作画と、現在の日本アニメの多くの監督とは一線を画すセンスなどによって熱狂的なファンを持つ湯浅政明監督。2017年は、『夜は短し歩けよ乙女』、『夜明け告げるルーのうた』と、湯浅監督の13年ぶりの劇場作品が、なんとほぼ同時期に2本も公開されるという、「湯浅当たり年」といえる僥倖に恵まれ、『マインド・ゲーム』以来のファンである私も、こんなことがあっていいのかと戸惑っていたところだ。

 その『夜明け告げるルーのうた』を観ながら、私は前述した「生命」と「魔法」という言葉を思い出していた。少女の人魚“ルー”が、美しく輝く水を自在に操るとき、心を閉ざした少年に、「好き、好きーーーっ! 」と無邪気に叫ぶとき、たしかに、そこには生命と魔法があふれていると感じ、アニメーションを見る根源的なよろこびに震え、涙がにじんでくるのである。では、この魔法は一体どこからあふれ出てくるものなのか。今回は、この秘密を解き明かすことで、本作『夜明け告げるルーのうた』の真価を探っていきたい。

 主人公の“カイ”は、寂れた漁港の町の中学生だ。両親が離婚したことで、父と一緒に東京から離れて、日傘職人の祖父の家に住んでいる。日無町(ひなしちょう)という名前の通り、この日光が差さない小さな町は、外界から隔絶され閉塞感に包まれている。中学校のOBは、「俺も東京に勝負しに行ったけど、結局負けて帰ってきた。この町で天才なんて言われてた奴らでも、あっちで通用した人数はゼロだ」と、未来に希望を持っているはずの学生たちにスピーチする。

 そういう環境の中で、カイは作曲した音楽をインターネットにアップすることで、かろうじて外界と通じていた。自分の心はこの場所にないというように。そんなカイが激変したのが、人魚のルーとの出会いによってだった。ルーに音楽を聴かせると、魚のかたちをした下半身が人間の脚に変化してゆく。音楽を止めると元通りになる。ルーという存在は、音楽に関わるときにだけ現実の問題を忘れ自由になることができる、カイの心の中そのものともいえる。彼はルーに出会うことで、本当の自分にも出会たのだ。カイという名前は、雄大な可能性を示す「海」であり、殻を開かない頑固な「貝」であり、またアンデルセンの童話『雪の女王』で、「何を見てもつまらないものに見える」という呪いの鏡の破片が体のなかに入って心を閉ざし、やがて少女によって助け出される少年“カイ”のようでもある。

 本作に登場する人魚は、海の水を自在にコントロールして、いろいろなかたちを作ったり、空に飛ばしたりすることができる。そのような魔法の力を与えられた水は、ありえないほどポップなライトグリーンの色に光っている。海の水がこんな不思議な色をしているのを、そういえばどこかで見たなと思っていたのだが、東映動画の傑作アニメ『どうぶつ宝島』で描かれた、外洋の印象的な海の色に近いことに思い至った。

 そう考えると、本作のオープニングは『となりのトトロ』にそっくりだし、ルーのポップな色彩は『うる星やつら』のようでもあり、ルーと少年がブランコに乗るシーンは、『アルプスの少女ハイジ』のオープニングを連想させ、ルーの父の、虚ろな目でニッと笑う表情は、『パンダコパンダ』のパパンダそのものだし、ダンスシーンではディズニーなどの、アメリカで一時期流行した表現を取り入れつつ、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』らしきシーンもあったり、何よりも、「好き! 好き! 好き!」とためらいなく叫ぶ人魚ルーの活躍を描く本作は、「ポニョ、そうすけ好き!」でおなじみの、宮崎駿作品『崖の上のポニョ』と、キャラクターやストーリーの設定を含めて、いろいろな点でそっくりなのである。

 ここで挙げた作品全てを、湯浅政明監督が実際に意識しているのかは分からないが、少なくとも複数の名作アニメーションの要素を集めて本作が作られていることは確かだろう。このように、あたかもカヴァー・アルバムのような手法を使っているというのは、ある意味でアニメーション史の総括をしているともいえる。それは、高畑、宮崎アニメなどに代表されるアニメーション文化の美点を受け継いでいくという宣言でもあるのではないか。そして、その魅力の始原を振り返ることで、本作にアニメ本来の魔法の力を取り戻そうとしているようにも感じるのである。

 本作を見ていて驚いたのは、絵の力がとにかく圧倒的だということだ。湯浅監督が得意な、線が有機的に動いていく幻惑的なスペクタクル場面はもちろんなのだが、それだけでなく、地味な会話シーンなども異常に面白いのだ。キャラクターは、ときに「漫画的」なまでにカリカチュアライズされ、表情や姿勢の面白さなどが、何やら面白いことになっているのである。心を閉ざしていたはずのカイが、突然舌を出しながらイッちゃってる顔で音楽にノリ出すのは代表的な箇所である。おそらく本作は、コマ送りで眺めても面白おかしいはずである。既存の表現を工夫もなく利用して事務的な作業に終始するアニメ作品もあるなかで、本作は絵が生きているのである。これはアニメーターが「面白い絵を描いてやる」という不断の意志と、楽しみながら描くこと無くしては、絶対に達成し得ない仕事である。宮崎駿監督の『天空の城ラピュタ』には、「愉しきかな 血湧き 肉踊る 漫画映画」というキャッチコピーが付けられていたが、まさに本作にもふさわしい言葉である。

 とはいえ、この絵の魅力というのは、そこまで広く評価されていないのかもしれない。というのは、例えば新海誠監督の『君の名は。』では、詳細に描き込んだ背景や、グラデーションなどのエフェクトなどを最大限に利用して、リッチな画面を作り上げる方法によって観客を魅了していた。しかし、多くの要素を画面に詰め込んで圧倒させるというのは、誰でも理解できる、最も分かりやすい絵の魅力だともいえる。対して本作では、逆に線や色数を減らし抽象化を進めることで、絵をシンプルに洗練させていくミニマリズム(最小限主義)の手法がとられている。本作が魅力的な絵を連発できたのは、この単純化によって、作業量が比較的軽減されたという事情もありそうだ。見せたいところに注力することで、絵の魅力を高めることができているのだ。しかし、このような表現は、抽象画や墨絵などの美点を理解できなければ、寂しく物足りない絵に見えてしまうときもある。そういった点から、湯浅監督の表現はアートとして評価される一方、娯楽作品としては少しとっつきにくいものにもなっている。

 しかし本作のテーマは、ルーのように好きなことを好きと言える勇気を持つということである。カイが心の中の重い殻を自分からこじ開けるとき、彼はルーのように、本当に好きなものを好きだと言えるはずなのだ。そしてそういうメッセージを観客に伝えたいのなら、作品そのものが、自分のやりたいことを楽しみながらやっていなければならないだろう。そういう意味で、本作は作り手自身が「好きーーー!」と叫ぶように、自由に創造力を叩きつけることで、その役割を十二分に果たしている作品になっているといえる。あとは、時代の評価が追いついてくるのを待つだけである。

小野寺系

最終更新:6/3(土) 14:00
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