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知略で井伊家を救った「おんな城主」直虎

6/5(月) 18:11配信

日経BizGate

最後のひとりとなった井伊家の嫡男

 井伊の名前で歴史に名を残した有名人物といえば、幕末に大老を務め、桜田門外の変で暗殺された井伊直弼(なおすけ)だ。直弼の肩書は、譜代大名筆頭・彦根藩井伊家13代当主。もちろん直政の子孫である。

 そんな井伊家のはじまりは平安時代までさかのぼる。『井伊家系図』によると、藤原道長などが輩出した名門・藤原北家の出とされている。もとは名家の一族なのだ。

 鎌倉時代に遠江一帯に勢力を広げた井伊家は、周囲を山に囲まれた井伊谷(いいのや)の国衆として、貴族の血を引くという誇りを胸に平和な日々を過ごしていた。

 しかし、戦国の世になると駿河(静岡県東部)の今川氏親に攻めこまれ、その影響下に置かれるようになる。今川家が井伊家を戦において先鋒として使うようになると男子が次々と戦死し、桶狭間の戦いでは当主の直盛が戦死した。その後、今川家が衰えていくなかで当主となった直親(直政の父)は、家康に通じたと疑われて謀殺された。このとき、虎松こと直政はまだ2歳である。その翌年には、老体をおしてふたたび当主となった直平が急死する悲劇に見舞われた。

 こうしてわずか3年の間に当主を立て続けに失い、井伊家の男子は2歳の虎松だけとなってしまうのだ。虎松を生んだ母は、夫・直親の死後すでに徳川家臣と再婚していた。そこで虎松の後見人となったのが直虎である。直虎は直親のもと許嫁であった。

 男子がいなくなった井伊家を継いだ“おんな城主“直虎は、井伊家の男子で生き残った虎松を育て上げた。徳川方につこうとした井伊家は、その後も幾度となく今川家に圧力をかけられ、各地を転々としている。

 逃亡生活を送りながら、虎松は8歳まで直虎に保護・養育され、その後は寺に避難。井伊家を再興するため、一族によって必死で守られていたのである。

 今川家に内政干渉されていた直虎はじっと耐えていたが、1568(永禄11)年11月、ついに井伊谷城を今川家に明け渡して領土を失う。じつは、これは直虎があえて選択した、生き残るための手段だった。直後に徳川家が今川領を攻め、井伊谷は家康の支配下となる。

 もしそのまま井伊谷城に残っていたら、井伊家は今川家の命を受けて徳川軍と戦うことになり、滅ぼされていただろう。絶妙なタイミングで明け渡していたのである。

 井伊家の復活を模索していた直虎は、徳川家康に賭けることを決意。15歳になった虎松を家康の家臣に送りこんだ。直虎の母の再婚先である松下氏の口利きもあって、鷹狩りを楽しんでいた家康との謁見に成功している。

 家康は、虎松の父・直親と親交があったことを理由に虎松を快く迎え入れ、井伊家を継ぐことを認めた。こうして虎松は、家康の幼名・竹千代にちなんで、「万千代」と名づけられたのだ。

 さらに家康は、城も家臣もない会ったばかりの少年に300石を与えている。なぜ、そこまで手厚く処遇したのか――美少年だった万千代を寵愛したからともいわれるが、本当のところは不明である。

 その後、家康は万千代を小姓として召し抱え、政治や武芸を学ばせた。家康は、戦場においても戦略を細かく指南したという。手塩にかけて育てたといえる。

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最終更新:6/5(月) 18:11
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