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【黄金世代】第2回・遠藤保仁「152キャップの格別~すべては日の丸が教えてくれた」(♯4)

6/5(月) 6:00配信

SOCCER DIGEST Web

2002年からの4年間って、ものすごく濃い4年間だった。

 ワールドユースで銀メダルを掴んだ。その後に続くシドニーオリンピック、そして日韓共催ワールドカップに向けて視界は良好かと思いきや、事はそう上手く進まなかった。

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 オリンピック予選ではふたたびベンチスタートを余儀なくされ、本大会は登録メンバーに入れず、かろうじてバックアップメンバーに名を連ねる。そこで、フィリップ・トルシエ監督と日本サッカー協会は酷な決断を下した。怪我人が出て代替登録されないかぎり、ピッチには立てない遠藤保仁、山口智、吉原宏太、曽ケ端準の4人を、チームに帯同させたのだ。
 
 これも大事な役目と頭では理解していても、20歳の若者にとっては、自制が難しい毎日だった。
 
「悔しかった。なんで選ばれなかったのか、もうちょっと自分としてできたんじゃないかとずっと思ってて、どこかで出し切った感がなかったから。落ちてもしょうがないってところまで、自分を持っていけてなかった。納得できてないなかでのバックアップだったんでね。もっと強くなって帰ってこいと、そう言われてるんだと思いなおした」
 
 その後もA代表には呼ばれそうで呼ばれず、2002年のワールドカップは完全に蚊帳の外。大会後、ジーコ政権に移行してからのアルゼンチン戦(11月)でようやく初キャップを刻んだ。
 
 ジーコジャパンでは大いに存在を示した。中田英寿、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一が織りなす黄金のカルテットが中盤のレギュラー枠を独占するなか、小笠原満男や福西崇史らと猛烈な突き上げを繰り返し、重要なパートを務めあげた。2003年のコンフェデレーションズ・カップや2004年のアジアカップで印象的なパフォーマンスを披露し、ドイツ・ワールドカップのアジア最終予選でも要所で起用され、指揮官の期待に応えた。
 
 しかし、ドイツでは大会登録の23人には選ばれるも、フィールドプレーヤーで唯一出場機会を与えられなかった。周りは憐みの眼差しを向けたが、当の本人は、さしてショックを受けていなかったと振り返る。
 
「あれだけのメンバーだから、出れない選手がいるのは当たり前だと思ったし、最後のブラジル戦は展開次第で出れるチャンスがあったしね。もちろんワールドカップのピッチに立てなかったのは悔しいんだけど、そこだけ切り取られても困るかな。
 
 2002年からの4年間って、個人的にはものすごく濃い4年間だった。試合数が多くて、海外遠征も変わった国にいっぱい行かせてもらったからね。あの4年で40試合くらい出たんじゃないかな。ずっとすごいメンバーと一緒にやれたし、対戦相手も強豪ばかりで、本当に感化されっぱなしだった。
 
 どうしてもワールドカップでの出来や出場の有無とかが印象としては残りやすい。実際に、俺を出せばもっとやれるのにとは思ってたけど、いつも充実してたし、ジーコには感謝の気持ちしかない」

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最終更新:6/5(月) 13:54
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