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大澤真幸は 『負債論』の著者・グレーバーが 夥おびただしい事例を挙げつつ繊細に解釈する姿に魅力を感じた

6/8(木) 6:00配信

Book Bang

  われわれは倫理的な義務を、負債として思い描く傾向がある。「あの人に借りがある」等と。だが、義務と負債は別のことではないか。どうして両者は同一視されるのか。こんな問いから本書は始まる。
 本書は、「負債」ということを基礎にして、経済現象を包括的に説明するものだ。……と言ってしまうと、きっと人は誤解する。本書でいう「経済」は、普通に経済と見なされていることよりずっと広い。マルクスの『資本論』は、経済現象についての説明だけではなく、人間と世界についての包括的な洞察を与えてくれた。本書も同じだ。本書は、『資本論』を意識し、その代替物たらんとする野心を秘めている。本書のさわりを紹介しよう。
 まず、貨幣の本質は負債で(も)ある。私が、いつかお返しをすると約束した借用証書を、誰かに渡したとする。その借用証書が流通すれば貨幣になる……わけだが、私の借用証書はそこまで信用されないかもしれない。しかし、負債をおうのが国王だったら、政府だったら、どうか。
「それ」が貨幣として流通するかどうかの決め手は、為政者がそれによる税の支払いを受け入れるかどうかにある。が、なぜ人は税を納めなくてはならない、と考えるのか。
そこには謎がある。

 本書で提示されている最も興味深い論点(のひとつ)は、人間経済と商業経済の区別だ。後者は、われわれが普通に経済と見なしていることだが、それ以前に、人間経済がある。人間経済とは、富の蓄積ではなく、人間存在や人間関係の創造・破壊・再編をめざす経済体制である。たとえば、ある社会では、結婚等において、象徴的な事物(装身具とか布とか)が交換される。それを本書は「社会的貨幣」と呼ぶ。一見、社会的貨幣によって配偶者が買われているように見えるが、違う。社会的貨幣が意味していることは、その人が何ものとも等価になりえないこと、つまり交換の不可能性なのだ。しかし、たとえば奴隷が出現したらどうか。奴隷は、まさに貨幣と等価な物と見なされている。奴隷は商業経済に属する現象だ。人間経済から商業経済への移行には、暴力が介在する。
 名誉という概念は、人間経済と商業経済、義務と負債の交錯するゾーンで生ずる、という著者の説明はまことに見事。名誉と名誉剥奪はセットになっていて、ゼロサム・ゲームになっている。交換不可能なものとして他者の保護のもとにある人間を、その他者から奪取して、交換可能性の領域に引き出すこと、これが他者にとっては名誉剥奪であり、その力を示した者にとっては名誉となる。
 本書の後半は、貨幣の二面の間の、つまり商品でもあり、信用(負債)でもあるという二面の間の振幅として、貨幣の誕生から現在までの、ユーラシア大陸の五千年史を描く。
 本書の魅力は、夥(おびただ)しい数の事例に対する繊細な解釈にもある。それら事例が寓話のように効いている。辞書のような大著なので読むのに骨が折れるが、その読書は必ず報われる(という物言いが、いかにも交換と負債の論理だが)

[レビュアー]大澤真幸(社会学者)
(おおさわまさち)社会学者。対談と論文で現代社会を特集形式で考える個人誌『大澤真幸THINKING「Oオー」』を毎月刊行中。

太田出版 ケトル vol.35 掲載

太田出版

最終更新:6/8(木) 6:00
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