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異人が思わずチップをはずんだ、幕末日本の遊郭

6/9(金) 12:00配信

BEST TIMES

『江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 安政六年(1859)六月、横浜が開港して、わが国は正式に開国した。
 この年の十一月には、早くも港崎(みよざき)遊廓が開業した。横浜に来航する商船の船員や、横浜の居留区に居住する商人などの異人(外国人)の相手をするためである。もちろん、日本人の客も遊ぶことができた。
 港崎遊廓の場所は、現在のプロ野球の球場のある横浜公園の地である。あの広大な場所が遊廓だったのだ。

 あらたに港崎遊廓が開業するにあたり、楼主たちは遊女集めに苦労したという。
 まずは品川宿や、神奈川宿の宿場女郎から希望者をつのったが、「異人の相手をするのはいや」と言って、みな港崎に行くのをこばんだ。なんせ、それまでみな異人など見たことがなかったのだ。「異人はけものに近い」「異人と接するとけがれる」などという迷信も根強かった。
 なんとしてでも期日までには開業しなければならないため、楼主たちはなかば強制的に各地の宿場女郎を港崎遊廓に送り込んだ。

 港崎遊廓でも最大規模を誇った妓楼が岩亀楼(がんきろう)である。岩亀楼の遊女喜遊は楼主からアメリカ人の客を取るようにせまられたが、異人に肌を許すことをこばみ続けた。ついにこばみ切れなくなり、

 露をだにいとう大和の女郎花ふるあめりかに袖はぬらさじ

という辞世の歌を残して、自害して果てたという。

 日本の女は貞節を重んじた。遊女ですら異人に肌を許すよりも死をえらんだ……と。この喜遊の悲劇と辞世の歌は、小説や芝居にもなったため、あまりに有名である。
 ところが、港崎遊廓の遊女が異人の客をこばんで自殺したなど、まったくのデマである。岩亀楼には、さらに港崎遊廓のほかの妓楼にも、喜遊という遊女は存在しなかった。自害した遊女もいない。

 それどころか、港崎遊廓の遊女たちは異人の客を歓迎したのだ。
 当初こそ、異人に肌を許すのを気味悪がっていたが、やがて遊女たちは異人の気前がいいのを知って、歓迎するようになったのだ。
 当時、圧倒的なドル高円安(もちろん単位は円ではなかったが)だった。外貨を持っている異人にすれば、日本の女は、「なんと、安い!」だった。おのずと気前がよくなり、チップをはずんだ。

 この状況は、東南アジアなどの歓楽街で遊ぶ日本人の男の感覚と近いであろう。幕末と現在では、状況が正反対だったといえよう。

 ついでに、「唐人お吉」について述べよう。
 唐人お吉は攘夷、あるいは反米の文脈で語られることが多い。つまり、下田時代のアメリカ総領事ハリスに見初められ、お吉はいとしい恋人がいたにもかかわらず別れさせられ、強引に妾にされた。
 唐人(外国人)に肌を許したとして、お吉は人々から「唐人お吉」とののしられ、つらい人生を送った――と。

 実際には、ハリスは身の回りの世話をする女中としてお吉を雇ったが、その皮膚に梅毒の兆候があるのを見て嫌悪し、追い出したというのが真相のようだ。
 ハリスのもとを去ってから数年後、お吉は下田で小料理屋を始めた。その金の出所は不明である。
 ところが、女将であるお吉が酒びたりの毎日で、商売どころではない。ついには店をつぶしてしまった。絶望的になったお吉は川に身を投げて死んだ。四十八歳だった。
 悲劇の主人公「唐人お吉」の実態は、なんとも自堕落な女だった。

 写真は、お吉が女将をしていた居酒屋。その後、寿司屋になり、現在は下田市の史跡として保存されている。

文/永井 義男

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