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島津製作所から見る「匠」と「テクノロジー」の関係

6/9(金) 18:05配信

WIRED.jp

京都には、島津製作所、村田製作所、京セラをはじめ、数々の製造業が軒を連ねる。京都の長い歴史のなかで、どのようにして彼らは生まれ、発展し、そして幾多の不況下においても好業績を上げているのだろう。島津製作所 創業記念資料館に所蔵されている理科学器械とともに京都の「技術」と「歴史」を探る。

理科学器械とともに京都の「技術」と「歴史」を探る

平安時代、日本の中心だった京都には工芸品に目が肥えた皇族や貴族と、彼らのお眼鏡にかなおうと日々技術を磨く職人たちが数多くいた。しかし、以来「天皇のお膝元」として長く繁栄してきた京都にも受難の日々が訪れる。

1869年の東京奠都により、工芸品の「使い手」であった皇族は東京に移り、京都には「つくり手」の職人たちだけが残ることになったのだ。京都市民は沈みきった京都に活力を呼び戻すため、1870年に京都舎密局(理化学研究所)を創設し、琵琶湖疎水の整備(1885年に着工)を進めた。

京都で仏具の三具足製造をしていた島津家の次男・源蔵(以下、初代・源蔵)は、工芸技術の集大成といわれる仏具の職人だった。1868年の神仏分離令により、仏具以外の商いの道を模索していた初代・源蔵は、木屋町二条にある本店兼住居の前に舎密局が移転してきたことから、ひんぱんに出入りしていた。

舎密局では活版印刷が行われ、ガラス、糸、そして石鹸までつくられていた。西洋の機械、科学知識を目の当たりにした初代・源蔵は「日本の未来に必要なのは高い技術力=テクノロジーである」と感じ、京都にいた職人たちの力を借りながら、西洋の理化器械のカタログから見よう見まねで器械を試作した。

こうして初代・源蔵は、仏具屋から1875年に転業し、島津製作所を創業した。主な事業は教育用理化器械製造だった。しかし、当時は教育用といえど、真空をつくり出す器械、音の高低による振動を示す器械など、「奇妙な現象を見るため」の道具にすぎなかった。それでも初代・源蔵は金属部分に見栄えのよい黄鋼を使うなど、機能以外のデザインにもこだわり、顧客から求められた仕様を満たすだけでなく、その卓越した技術力を生かした器械をつくっていた。

初代の長男である2代目・島津源蔵(以下、2代目・源蔵)は、15歳で手動発電機「ウイムシャースト感応起電機」をつくるなど、「発明の才」があったといわれる。

1889年、京都に第三高等中学校が誘致され、1897年には京都帝国大学が設立された。ようやく理化学は「今後の日本を変えるための学問」とみなされ、理化器械も「実験器械」として扱われるようになった。

島津製作所は、地の利を生かし、最先端の研究を間近で見ることができたため、高度な研究用機器の開発、製造を進めることができた。1895年、ヴィルヘルム・レントゲンがX線を発見した際にも、島津製作所はその11カ月後にはX線写真の撮影に成功している。

とはいえ、初代・源蔵、2代目・源蔵にいくら高い技術力があったとしても、プロトタイプ製作には、必ず異業種の協力が必要となる。京都で育った職人たちの技術が集約された結果こそが、島津製作所の繁栄といえる。

初代・源蔵が1882年に発行したカタログ『理化器械目録表』の最終ページには次のような言葉がある。

「御好次第何品ニテモ製造仕候也」

これは、「お好み次第で、どんな品物でもつくります」という意味で、「顧客のニーズさえあれば、なんでもつくる」という徹底した顧客第一の企業精神と、「どんなものでもつくることができる」という島津製作所がもっていた卓越した技術力があってこその言葉である。

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最終更新:6/9(金) 18:05
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