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島津家の名臣・上井覚兼が没~今日は何の日

6/12(月) 19:30配信

PHP Online 衆知(歴史街道)

天正17年6月12日

天正17年6月12日(1589年7月24日)、島津家の家臣・上井覚兼が没しました。優れた武将であり、また『上井覚兼日記』は一級史料として知られます。
覚兼は天文14年(1545)、大隅国上井領主・上井薫兼の息子に生まれました。通称、神五郎、神左衛門。やがて、島津氏に臣従する父・薫兼は薩摩永吉郷の地頭となって移住、覚兼も元服すると、島津貴久に仕えます。
永禄4年(1561)、17歳の覚兼は大隅・薩摩の境に位置し、肝付兼続が拠る廻城攻めで初陣を果たしました。廻城攻防戦は、島津貴久の弟・忠将が討死するほどの激戦であったといわれます。
その後も大隅や日向の平定戦で軍功を重ね、天正元年(1573)、29歳の時に島津義久の奏者(御使役)となって鹿児島に居住。天正4年(1576)、義久によって老中に抜擢され、伊勢守覚兼と称するようになります。武将としてだけでなく、政務にも長けた人物として認められたのでしょう。この時、32歳。
同年8月、島津義久は伊東氏に奪われていた日向高原城を取り戻すべく、3万の兵を率いて出陣。覚兼もこれに従って出陣しました。義久は高原城奪還に成功しています。
天正6年(1578)、廻城攻防戦で討死した島津忠将の息子・以久の副将となり、日向石ノ城攻め、同年の日向高城川の戦い(耳川の戦い)に参戦。特に高城川の戦いでは、以久隊は戦いの行方を決める奮戦をしており、覚兼もその中にいたはずです。
天正8年(1580)には覚兼は日向宮崎城主となり、日向宮崎地頭に任ぜられて、義久の末弟で日向守護代の島津家久を補佐します。その一方、島津本家の枢機にも参画し、島津家にとってなくてはならぬ重臣となっていました。その後も覚兼は、肥前、肥後方面に出陣。島津氏は肥前の龍造寺氏を降し、九州制覇に向けて突き進み始めます。
しかし天正14年(1586)、島津家内部ではその後の方針をめぐって対立が生じていました。すなわち大友氏の豊後に攻め込むか否か、です。すでに大友宗麟は豊臣秀吉に援助を要請しており、豊後に攻め込むことはそのまま、豊臣と対決することを意味しました。当主の義久は、豊臣との直接対決は島津に危機をもたらすとして、回避したいと考えます。これに対し、弟の義弘や家久は豊臣との対決も辞さずの姿勢であり、特に日向の家久は強硬でした。覚兼もまた、家久とともに豊後攻めを望んでいます。このため、家久や覚兼は、義久の不興を買ったといわれます。
結局、義久の命令で島津軍は豊後ではなく、筑後、筑前へと攻め込みました。これに反発した家久、覚兼らは遅参します。彼らが島津軍の猛攻の前にも落ちない筑前岩屋城に到着したのは、城攻め開始から10日以上も過ぎてからでした。岩屋城に拠るのは、大友家の名将・高橋紹運。寡兵ながら島津軍の攻撃をよく防いでいます。日向勢が到着した島津軍は、総攻撃に打って出ました。その中に覚兼の姿もありましたが、城方の石打ちと銃撃に遭って顔面を負傷しています。岩屋城はついに陥落しましたが、島津軍も錚々たる武将が負傷し、予想外に大きな被害を受けました。
翌年、家久、覚兼らは義久の了承のもと、豊後に攻め込みますが、豊臣秀長率いる大軍の前に敗れ、秀長に降伏。その後、覚兼は薩摩伊集院に出家隠棲し、一超宗拙と称したといいます。天正17年、病没。享年45。
『上井覚兼日記』には、島津家内部の対立などを窺わせる記録もあり、当時の島津家が直面していた問題を知ることができます。 覚兼が没する2年前、彼が補佐していた家久が41歳で病没しています。一説に毒殺も囁かれますが、詳細はわかりません。いずれにせよ、島津の躍進は四兄弟を核にしながら、彼らを優秀な家臣たちが支えていた点にあるのでしょう。上井覚兼も間違いなく、その中の一人です。

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