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どいつもこいつもいがみ合い!「応仁の乱」はこうして起きた

6/13(火) 21:01配信

エイ出版社

「応仁の乱」が大ブーム!

今、歴史ファンの間で応仁の乱ブームが起きていることをご存知だろうか? 歴史の教科書に必ず出てきて、後に続く戦国時代の幕開けとも位置付けられるのだが、戦に至った理由や、その人物関係があまりにも複雑なため、なかなか理解することが難しい。

今回はなぜ応仁の乱は起こったのか? その複雑な対立構造をわかりやすく説明しよう。

室町幕府は将軍の権威が弱かった!

室町幕府はいくつかの大名化した守護の連合政権的性格だった。この守護たちが幕府政治にあれこれと口を出すために将軍の近くにおらねばならず、そのため領地は地元の担当者に任せて、守護は京に在住することが多かった。この守護たちに対して、将軍が持つアドバンテージは守護に任ずる権利を持っていること。守護になることが、その家の惣領(リーダー)になることにもつながったので、守護側から将軍に工作することもあれば、将軍側が介入することもあった。

応仁の乱が起こる前に、将軍暗殺事件が勃発する!

先ほど説明したように足利将軍家の権威が絶対的ではなかった当時、くじ引きで決まったという異色の経歴を持つ将軍が誕生する、それが6代将軍・足利義教だ。この義教がことあるごとに守護大名の家督争いにいちいち介入し、勢力を削ることに精を出した。特に播磨の有力守護大名であった赤松家の家督争いに介入し、恨みを買ってしまう。

そんな中、赤松家の惣領である赤松満祐が義教を自邸に招き、殺してしまったのだ。当然、赤松家は幕府の征討を受け、満祐の切腹で事態は収拾する。この一連の事件を嘉吉の乱という。江戸幕府のような強力な体制下ではありえない将軍暗殺、それが起こってしまうのが室町幕府であり、将軍の権威だった。

将軍家や守護大名家、どこもかしこも諍いだらけ

京都やその周辺を中心に将軍家・有力な守護大名家はあちこちで家督争いや領地問題を抱えており、いつ本格的な争いになってもおかしくなかった。その対立構造を各家ごとに分かりやすく紹介しよう。

【足利将軍家】後継者問題

8代将軍・足利義政には子がなく、義政の弟で僧になっていた義尋を養子にし、義視として後継者につける。しかし、1465年に義政と正室・日野富子との間に義尚が誕生し、これが大問題に発展する。

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最終更新:6/13(火) 21:43
エイ出版社

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