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CM界から転身の著者、初の本格長編

6/14(水) 11:45配信

Book Bang

 平山と十二歳年上の妻ユキコさん。東京郊外の街で建売の家を買って長年住んでいるものの、駅から家に続く急勾配の坂道が、老いた二人の足腰にはこたえるようになっていて、不動産屋はこの家の近くまでバスが通るはずだと言っていたのにと、愚痴りあったりもする。

 川崎徹の書き下ろし長篇『あなたが子供だった頃、わたしはもう大人だった』の主人公夫婦は、よくお喋りをする。日々の他愛ない話や過去の出来事について、観た映画について、お互いの老いについて、話ははずむ。仲が良い。でも、二人の記憶は時に行き違う。不動産屋の話を信じて実印を押したのはどちらだったかとか、かつて交わした会話で互いがどんな言葉を発したかとか。しかし、これは老いた証拠というわけでもない。記憶とは若い時分からそうしたもので、覚え違いに気づいて小さく笑いあったり、憮然としたりすることが、誰かと共に生きる歓びなのだということを、平山とユキコさんの、生真面目さとユーモアが同居する会話が教えてくれるのだ。

 平山の父の深緑色のボルサリーノを車輪に巻き込んだまま走り抜けた列車。列車めがけて漬け物石を投じた八百屋の姉弟。網棚に置き去られた赤ん坊。高校の山岳部の再興を託された新米教師の木川田。鉄下駄で校庭を走る木川田を撮った八ミリ作品で、コンクールの銀賞を勝ち取った平山ら写真部の部員。後年、日本で十本の指に入る登山家としてヒマラヤで死んだ木川田。

 時折家にやってくるたぬきと、お菓子をつまみながら並んでテレビを見るような人、ユキコさんとの静かな生活と会話が呼び水となり、平山の過去を形作った人々や記憶の像がゆっくりと焦点を結んで、現在進行形の物語の中に混ざっていく。でも、平山は自分の記憶が「絶対こうだ」という断言ではなく、「だろう」「だろうか」のニュアンスで蘇るものだということを知っている。そうした決めつけのない融通無碍な語り口こそが、川崎作品の真骨頂なのだ。

 併録されている、今から十二年前に出たものの、長らく読めないままだった中篇『彼女は長い間猫に話しかけた』も一緒に味わえば、川崎徹にとって記憶のメカニズムがいかに重要なモチーフかがよくわかる。とことん静かなのに心の深いところまで響く声が心地好い、この素晴らしい二篇に接して、川崎徹が高名なCMディレクターだったことを思い出す読者はいないはず。ここにいるのは、ただの一人の優れた小説家だ。

[レビュアー]豊崎由美(書評家・ライター)

新潮社 週刊新潮 2017年6月15日号 掲載

新潮社

最終更新:6/14(水) 12:42
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