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松本の町を歩いて実感!江戸時代の「城下町」を楽しむ2つのポイント

6/17(土) 18:10配信

サライ.jp

文/萩原さちこ

江戸時代の城下町の基本構造がどうなっていたか、ご存じでしょうか?

一般的には、城、侍町(上級武家屋敷、中・下級武家屋敷)、町人地、寺社地が同心円状に置かれるのが基本です。ちょうど侍町や町人地や寺社地で城をぐるりと囲み守るイメージです。もちろん、地形や街道が関係してくるため、規則的な同心円になるとは限りませんが、配置の順は同じです。

これを知っておくと、各地に残る城下町を訪れたときに、その構造を楽しむことができます。

今回は、松本城(長野県松本市)とその城下町にあてはめて見てみましょう。

■1:城下町の構造を重ねてみる

松本城の場合は、城の南・北・東側に城下町が広がります。市街地化が進み、武家屋敷や町家などの建造物が残っているわけではありませんが、ポイントを押さえれば、城下町の骨組みがよく残っていることがわかります。

松本城天守が建つのが本丸、それをコの字型に囲む内堀越しのエリアが二の丸です(現在は松本城公園になっているところ)。この二の丸を囲む外堀の外側に侍町が広がり、その外側は総堀という堀で囲まれていました。現在の大手交差点のあたりが、城の正門である大手門跡。橋がかかる女鳥羽川を境に、北は侍町、南は町人地に分かれます。

城と城下町がきれいな同心円にならない大きな理由として挙げられるのが、街道との関係です。

町人地は街道と密接な関係があり、町家は街道の両側に建ち並びます。松本城の場合も、善光寺街道沿いに町家が並ぶため、松本駅方面の城南側から北へと通り、大手門前で東に折れ、その後また北へとのびる善光寺街道に沿って町人地がつくられています。その外側が、寺社地になります。

松本の城下町は、水野家の藩政時代(1642~1725)には拡張整備が完了したようです。「親町三町、枝町十町、二十四小路」と呼ばれ、本町・中町・東町という3つの町を中心に、そこから10の町が枝分かれし、24の細い小路が道と道をつないでいました。

うれしいことに、松本城のホームページには当時の絵図を現代の地図に重ねたものが掲載されています。照らし合わせながら歩くと、かつての城下町がよみがえるかのように、町の構造が辿れます。

■2:旧町名の由来を味わう

ところどころに江戸時代末期の旧町名を示す石柱が立っているのも、松本城下町の魅力です。

たとえば高禄の藩士が屋敷を構えていた三の丸の侍町は「大名町」。堀の土を盛った場所である「上土」、柳の木が多かった「柳町」など、名の由来を想像するだけでも楽しいものです。「鷹匠町」は、鷹を飼う鷹匠たちが住んでいたことが由来。職種ごとに商人や職人が暮らし、計画的な城下町が形成されていたのです。

*  *  *

以上、今回は松本城下町である長野県・松本の町を例に、江戸時代の城下町の楽しみ方をご紹介しました。2つのポイントを押さえて、全国の城下町を歩いてみてはいかがでしょうか。

文/萩原さちこ(はぎわら・さちこ)
城郭ライター・編集者。小学2年生で城に魅せられる。青山学院大学卒業後、広告代理店や制作会社を経て独立。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座など行う。おもな著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波書店)、『図説・戦う城の科学』(SBクリエイティブ)、『江戸城の全貌』(さくら舎)など。 東京都生まれ。公益財団法人日本城郭協会学術委員会学術委員。

最終更新:6/17(土) 18:10
サライ.jp