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【書評】「食」から浮かぶ40代の終わり近い独身女の日常

6/20(火) 7:00配信

NEWS ポストセブン

【書評】『箸もてば』石田千・著/新講社/1700円+税

【評者】池内紀(ドイツ文学者・エッセイスト)

 ちいさなエッセイが三十六篇。読んでいくと少しずつ浮かび上がる。四十代の終わりちかい女のひとり暮らし。十幾年か勤めたあと、いまの文筆生活になった。はからずも住みついたのが都心の外れといったあたり。ひとり者には三度の食事が一日の目盛りになる。「箸もてば」、とたんに脳裏をかすめることがある──。

 日常の些事をきちんととらえ、それ以上にも以下にも書かない。重かったり、大きすぎたり、情緒過多の言葉は決して使わない。ことさら述べたりしないが、人柄、気性、考え方までつたわってくる。たとえば徒党を組んだりしないし、傷口をなめ合うようなこともしない。書くことによって自分を試しているところがある。試みの尺度はきびしくて、そしてあたたかい。

 父は銀行員で、あちらこちら転勤するなかに育った。母は洋裁の内職。どの町に移っても仕事を見つけてきた。現在は東北の町に定住。娘は帰ると、一日の終わりに母の寝酒の御相伴にあずかる。

「湯をわかしながら、きゅうりをせん切り。トマトはくし切り、うす焼き玉子は、細く細くと念じてきざむ。焼豚は、少し太いほうがうれしい」

 手を動かしていると、きれぎれに記憶がかすめて通る。それはおじいさんの三十三回忌法要のお膳の思い出だったり、ほろ苦い恋の悩みだったり。季節と同じように、記憶もまた循環する。

「だしをとった昆布は、ふたたび干して、浅漬けをするときに入れる、かつお節は炒って納豆にまぜて辛子をすこし」

 ここでは土鍋の出番がドラマになる。ロールキャベツがアリアを歌うだろう。小ジョッキのビールとともに最初の本をつくってくれた編集者が、あの世から出張してくる。語り手はスーパーで買ってきたモノたちを素材にして、手料理のリズムで語らせ、自分を含めたまわりの世界が、大きな一つの生命体のつながりにあることを信じさせてくれる。細い腕とペンの力で、そんな微妙なこころの状態を書きとめた。

※週刊ポスト2017年6月30日号