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暴れん坊将軍のモデル・徳川吉宗が没~今日は何の日

6/20(火) 7:10配信

PHP Online 衆知(歴史街道)

寛延4年6月20日

寛延4年6月20日(1751年7月12日)、徳川8代将軍吉宗が亡くなりました。享保の改革の担い手として、また「暴れん坊将軍」のモデルとしてもおなじみです。
7代将軍家継が僅か8歳で他界しました。これにより2代将軍秀忠以来、将軍位を継承してきた血筋は途絶え、御三家の出番となります。そして様々な駆け引きの末、6代将軍家宣の正室・天英院の指名で、紀州藩主の吉宗が8代将軍の座につくことになりました。
貞享元年(1684)、紀州藩2代藩主・光貞の四男に吉宗は生まれます。光貞は家康の孫ですので、吉宗は曾孫にあたります。母親の於由利の方は身分が低く、吉宗は5歳まで家臣の加納五郎左衛門の屋敷で育ちました。6歳で城に戻った吉宗は、いたずら好きだったようで、二の丸大奥に通じる廊下の障子に指で穴をいくつも開けてしまいます。そこで職人が呼ばれ、張り直す紙を見積もっていると、吉宗が現われて「紙は五帖で足りるぞ」と言い、実際、職人が計算するとピタリと一致したとか。吉宗は「開けた穴を数えておいただけじゃ」とケロリとしていたようですが、6歳の子供にしては計算が得意だったようです。
その後、江戸藩邸に移り、元禄10年(1697)には父や兄たちとともに5代将軍綱吉に拝謁、14歳の吉宗は和歌山藩の支藩・越前葛野藩主に任じられます。もっとも吉宗は現地には赴かず、和歌山にいました。やがて吉宗は身長6尺(約180cm)で色黒の逞しい青年に成長。父親の前で本職の力士と相撲をとって、これを投げ飛ばし、また狩の際に突っ込んできた手負いの猪を銃の台座で一撃し、打ち倒した話などが伝わります。まさに暴れん坊です。
宝永2年(1705)、3代藩主の長兄が病没。3兄が4代藩主となりますが、この3兄も半年後に病没し、さらに父・光貞も没したことから、期せずして22歳の吉宗は5代紀州藩主となりました。藩主となった吉宗が直面したのは、藩の財政難です。吉宗は水利事業や新田開発を行なわせるとともに倹約を命じ、自ら朝夕の食事は一汁三菜、着物は木綿。さらに武芸を奨励して、贅沢に慣れた藩士たちの気風を質実剛健なものに改めていきます。これによって幕府から借用していた10万両を返済、藩財政を再建することにも成果を上げました。
享保元年(1716)、7代将軍家継の死を受けて、33歳の吉宗は8代将軍に就任します。吉宗は6代家宣の代からの側用人であった間部詮房や新井白石を罷免し、将軍親政体制を復活させます。そして幕府政治の舵取りをするにあたって直面したのは、またも財政難でした。ここで吉宗は、幕政改革を決断します。世にいう「享保の改革」です。
まず豊凶に関わらず一定の年貢を納めさせる定免法や、大名の石高1万石につき100石の米を納めさせ、その代わり参勤交代を緩和する上米の制によって幕府収入を安定化させます。また新田開発を推進する一方、足高(たしだか)の制を設け、家柄の低い者が要職に就く際には、在職中は不足する役料を補うことにして、人材抜擢に務めます。あの南町奉行として知られる大岡越前守忠相も、この制度で抜擢されました。さらに「目安箱」を設置して庶民の声を把握し、貧しい人々のための無料の療養施設「小石川療養所」も、その声から生まれています。飢饉に備えて、サツマイモの栽培も推進しました。さらに武芸を奨励して華美な気風を質実剛健なものに改めようとします。家臣が贅沢な衣類をまとっていると、じっとそれに目を注いで何も言わず、家臣にそれを悟らせたといわれます。
こうした吉宗の改革はすべてがうまくいったわけではありませんが、幕府の財政再建に大きく寄与したことは間違いなく、徳川将軍の中でも名君に数えられることになります。 延享2年(1745)、62歳で隠居し、将軍職を息子の家重に譲りました。また次男宗武に田安家を、四男宗尹に一橋家を創設させ、吉宗死後に創設された清水家を加えてこれらは「御三卿」となります。これは御三家の血筋が将軍家から離れていることへの対処として、将軍に近い血筋の者を側に置いて藩屏にする意図がありました。
将軍引退から6年後、寛延4年に没。享年68。

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