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「鄭成功」「八田與一」「蒋介石」――台湾「歴史評価」の難しさ

6/20(火) 12:00配信

新潮社 フォーサイト

 

 日本の台湾統治時代の日本人技師で、当時アジア一の規模とされた「烏山頭水庫」という巨大ダムの建設を指揮し、台湾南部の農業を変革した功労者として現在も台湾社会から深く尊敬されている八田與一氏の銅像が、4月上旬、頭部を切り落されるというショッキングな方法で破壊された。

 1886年生まれの八田與一は石川県出身で、東京帝国大学で土木を学び、台湾総督府に就職する。周囲の反対を押し切ってダムの建設を推進し、水源不足に悩んでいた台湾南部の農業を穀倉地帯に一変させた。1942年にフィリピンに派遣される途中に船が撃沈されて亡くなったが、台湾南部の民衆が八田與一を懐かしみ、戦前に自費で造った歴史的な銅像が、今回壊されたのだった。

 このニュースは台湾のみならず、日本にも強い衝撃を与えた。犯人は中国との統一を主張する政治団体の一員だった。この事件は、日本統治全体に対する是非の評価と絡まりながら、いまなお台湾で複雑な反響を呼んでいる。


■「大陸反攻」とダブらせた「反清復明」

 実はその銅像破壊の直前、この問題と遠いようで、実は深くつながっている別の案件がにわかに注目を集めた。鄭成功のことである。

 鄭成功は、日本でも『国性爺合戦』などの時代小説で広く知られている。父親は福建の海賊(倭寇)の鄭芝龍。母親は長崎出身の日本人女性。幼少期は日本で育ち、明朝を倒した清朝に対し、最後まで台湾を拠点に抵抗した。

 戦後の台湾では、政治的に「大陸の不当な政権(清朝=中国共産党政権を暗示)」と戦い続けた点が高く評価され、鄭成功を記念する式典が毎年4月29日に行われてきた。従来は内政部長という大臣が主催するイベントだったが、民進党政権になった今年から、台南市長が主催する形に変更された。これを「格下げ」と受け取った国民党などからは、民進党による「脱鄭成功」の動きではないかとの批判が上がった。

 鄭成功の位置付けは、台湾社会で非常に複雑な経緯をたどってきた。1683年の鄭氏王朝滅亡のあと、民間の信仰を集めていた鄭成功は、清朝末期になって国家レベルの英雄に格上げされた。それは、日本の台湾出兵(1874年)に対抗して、台湾の愛国意識を高めるため、清朝に刃向かった国賊の鄭成功をあえて政治利用しようという清朝の思惑からだった。

 日清戦争の結果、台湾が日本に割譲されると、今度は鄭成功の母親が日本人で本人も長崎・平戸生まれという日本との「縁」が注目され、「開台の祖(台湾を開いた人物)」として改めて神格化された。台南にあった「鄭成功廟」が、同じ場所で、台湾で最初の神社「開山神社」に改築され、鳥居も立てられた。

 さらに、1945年の日本の敗戦で台湾を中華民国政府が接収し、国共内戦で国民党が台湾に撤退。すると前述のように、正統性を欠いた大陸の政治体制を否定するという意味で鄭成功が掲げた「反清復明」を国民党政権が掲げた「大陸反攻」とダブらせ、鄭成功の価値はさらに高くなった。


■人間的で政治的な作業

 現在、台南市で鄭成功は「明延平郡王祠」という名称で祀られているが、これは明朝(当時は本朝がすでに滅亡して残党勢力ではあったが)から「延平郡王」に任命されたことを評価していることを示す。日本時代の鳥居は残っているが、そこには国民党の大きなマークがつけられている。

 鄭成功は、言ってみれば、清朝初期の「国賊」から清朝末期には「英雄」に祭り上げられ、日本時代も「神」とされ、戦後の国民党時代になってさらに持ち上げられたという経緯をたどっているのである。

 いまの台湾社会でも、鄭成功は1人の英雄と考えられている。台南の人々は地元の英雄として鄭成功を大切に思っていることも確かだ。ただ、台湾主体性を重視する民進党の価値観では、鄭成功はそこまで重視する人物にはあたらない。オランダ人を台湾から追い払った功績はあるが、台湾を「大陸反攻」の基地として戦った点についてはシンパシーを感じるものではない。台湾南部にいた先住民を鄭氏一族が殺戮したとも伝えられる。

 今回、記念式典が台南市長の主催になったことが民進党の歴史観を反映したものかどうかははっきりしない。ただ、鄭成功の位置付けをめぐる論議は、歴史的人物の評価が、政治の方向次第で大きく揺れ、急激に上がったり下がったりすることを示している。

 歴史を扱うことは、極めて人間的で政治的な作業なのである。


■丁寧かつ慎重な受け止めが肝要

 八田與一氏についても、地元の人々が深くその業績を懐かしんでいるのは確かな事実である。私も台湾南部の取材で人々から感謝の声を何度も聞かされた。破壊された銅像は、戦後のかなりの時期、表に出せずに地元の水利会の倉庫に隠されていたが、国民党の弾圧を恐れてのことだった。1980年代末に刊行された作家・古川勝三氏の八田與一氏に関する著書『台湾を愛した日本人 土木技師 八田與一の生涯』をもとに、1994年に司馬遼太郎の『街道をゆく 台湾紀行』(朝日新聞出版)でその活躍が描かれて注目を集めるまで、日本社会でもそれほど広く知られた存在ではなかった。

 近年、日台関係の接近に伴って、そのシンボルとしての八田與一氏の知名度はいっそう高まった。とりわけ2008年、総統就任直前の馬英九氏が台湾の指導者として初めて慰霊祭に参加し、その後、国立公園化を進めたことで、八田與一氏への評価は戦後70年を経て、ピークに到達したと言えるだろう。

 個人的には、日本人の先達として八田與一氏の功績が認められるのは喜ばしいことだと思う。彼が日台交流のシンボルになることも、その実績に鑑みれば不適当なものではない。

 ただ一方で、敗戦の反省の上に再興された戦後に生きる日本人として、台湾統治という過去に対する謙虚さが基本的に求められるなか、台湾の人々が感謝する相手が八田與一氏であれ、誰であれ、バランス感覚を失わない態度で丁寧かつ慎重に受け止めることが求められていることは肝に銘じておきたい。


■無視できない「内心のストレス」

 今回、中国と台湾との統一を目指す団体のメンバーが、日本統治に対する否定的なスタンスをもとに、八田與一像の首を切り落とした事件それ自体は、極端な思想の持ち主の突発的な犯行であったのだろう。

 ただ、八田與一氏への高評価に違和感を抱き、「八田與一は植民地搾取の尖兵だった」と指弾する歴史観が台湾社会の片隅に存在しており、彼らは現在でこそ台湾社会のマイノリティでその声はけっして多数の賛同を得るものではないが、かつては台湾社会の政治的な主流派であった。民主化後の台湾政治の変動で非主流への「転落」を経験した彼らの、内心のストレスを甘く見てはならない。

 同時に、八田與一氏の銅像破壊のあとに、台湾の論壇で沸き起こった議論は、現在、民進党政権が進める「移行期の正義」政策のなかで、蒋介石像の撤去や「中正紀念堂」(蒋介石の顕彰施設)の廃止論などの議論と結びつき、蒋介石の仇を八田與一で取るといった短絡的な「報復行為」として語られる部分があった。

 蒋介石への個人崇拝は台湾ではすでに終結しているが、その「遺跡」はいまなお台湾に広く残っている。中正路(「中正」とは蒋介石の本名)という道路の名前はあちこちにあり、各地の学校にも蒋介石銅像が残っている。これらが過去の遺物であるという点では社会的コンセンサスではあるものの、蒋介石の歴史的な評価について、台湾民衆を虐殺した「2.28事件の元凶」(2015年3月20日「台湾の『銅像政治学』と今も続く『蒋介石攻撃』」参照)か、台湾の発展を導いた「優秀な政治指導者」であるかの間で意見が割れている台湾で、蒋介石時代の歴史的遺構をいかに扱うかは、非常に敏感なテーマであり続けている。


■歴史人物評価の難しさ

 蒋介石が権威主義時代に、現在の価値観からみればありえない非人道的な政治決定に関与し、多くの人命や人権を損なったことは事実である。数万の民衆が犠牲になった2.28事件で、台湾への軍派遣と鎮圧に許可を与えた最終責任者は紛れもない蒋介石だった

 一方で、中国共産党の「台湾解放」に抵抗しうる唯一の勢力として台湾の共産化を防ぎ、結果として、のちの経済成長や民主化へつなげたという指摘も、簡単には否定できない面がある。

 現存する蒋介石像や関連施設をどうするのか、という問題については、その施設の内容によって一概に言えない部分もある。「個人崇拝に絡むので撤去する」という考え方と「歴史の一部として残しておくべき」という考え方のどちらにもそれなりの言い分がある。

 ただ、蒋介石像の破壊やペンキかけが各地で続いていることから、八田與一氏の銅像破壊のときに、「蒋介石像の破壊に黙っていて、八田與一像の破壊だけを批判するのはおかしい」というロジックが展開され、さらに、八田與一像の破壊の直後、台北市の郊外にある蒋介石像の頭部が切り落とされ、「八田與一像破壊への報復だ」とする声明がなされたことは、この問題がなお危険なレベルで民衆の感情を刺激することを物語っている。

 台湾においては、台湾の歴史観、中国の歴史観、日本の歴史観が、ある部分で統合され、ある部分で未整理のまま複雑に絡み合いながら、共存している。そのことは台湾社会の多様性や重層性をもたらす「長所」であると考えるべきだが、歴史的人物への評価が政治的立場に結びつくケースも多く、評価自体が政治問題化することも珍しくない。

 鄭成功、八田與一、蒋介石という歴史も時代背景も功績も異なる3者の問題がほぼ同時に台湾社会で出現したことは、偶然ではない。台湾の政治構造が激しく変動するなかで、価値観と歴史観が大きくスイングした結果を示しており、歴史の人物評価の難しさを改めて教えてくれるものとなった。(野嶋 剛)

 

野嶋剛