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漢、Zeebra、ANARCHY……ドラッグの密売体験も激白!ラッパー自伝の“リアル”とは?

6/21(水) 15:01配信

サイゾー

――本誌にたびたび登場したラッパーのMC漢。新宿のアンダーグラウンドをラップしてきた彼の自伝は3万部も売れた。キワどい実体験が綴られた同書は確かに面白いが、いつも“オレ”のことを歌うラッパーたちは、なぜ自伝を出すのか? ラップ批評界の気鋭の論客・韻踏み夫が、この独自の活字世界を総括!

 2015年に発売されたラッパーの漢 a.k.a. GAMIの自伝『ヒップホップ・ドリーム』【1】は、3万部を売り上げ、大きな話題となった。人気テレビ番組『フリースタイルダンジョン』(テレビ朝日系)でのレギュラー出演、前所属事務所Libra Records社長のスタッフへの暴力やアーティストへのギャラ未払いなどを告発して起訴することを宣言したDOMMUNEの放送(14年)などで、著者が注目を集めていたことを考慮に入れても、ヒットの最大の要因は自伝が「超越的に素晴らしい本」(菊地成孔)だったからにほかならない。

 すでに少なくないラッパーの本が出版されており、その多くが自伝である。ここではラッパーの自伝を読む楽しみを探ってみたいが、そのとき「リアルであれ(keep it real)」という言葉を避けて通れない。ラッパーは自分のことばかり歌う。自分がいかにリアルであるかを証明しなければ、生き残ることはできないのだ。ゆえに、ヒップホップは一人称の文化だとよく言われるが、それを私小説的だというのは間違っているだろう。確かに、ラッパーが書いた私小説は存在する。例えば、アルコール依存症となった自分を描いたECDの『失点イン・ザ・パーク』(太田出版/05年)と短編集『暮らしの手帖』(扶桑社/09年)がそうだ。また、DABOの著書『札と月』(トランスワールドジャパン/09年)は好評だったブログの書籍化だが、私小説的な短編「コンプレックス」を収録している。しかし、言ってしまえば、ラッパー本においては私小説よりも自伝のほうがはるかに面白い。それは、ラップ自体が私小説的ではなく、自伝的だからだ。

 では、自伝とは何か。フランスの自伝文学研究をひらいた『自伝契約』(1975年)の著者フィリップ・ルジュンヌは、自伝においては作者と語り手と登場人物が同一であることを指摘している。テクスト内における語り手と登場人物、そしてテクストの外=社会で生活する作者が同一であるため、自伝はテクストの内に自閉することはなく、その内容のすべてを引き受ける作者の固有名詞を通して、社会とつながっている。これを“自伝契約”という。嘘で固めた自伝を書けば、その作者は信用を失うだろうし、反対に自伝の内容が信じ難くても作者が信用できる人物ならば、おそらく読者は本当のことだと思うだろう。私小説との大きな違いもここにある。私小説においては、テクストとその指示対象である事実の間に作者の固有名詞が媒介しないのであって、作者の責任は最終的には免じられている。対して自伝は、社会的な審査の目にさらされるのだ。ヒップホップ・ファンが、ラッパーとその作品がリアルであるか否かを問うときの判断基準も、ほぼこの“自伝契約”と同じ仕方であると言ってよい。リリックのすべての責任は、ラッパーが取らねばならない。それができない場合はディスられる。

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最終更新:6/21(水) 15:01
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第1特集:閲覧注意な動画
第2特集:哲学的水着グラビア
第3特集:MC漢、小学生と"ビーフ"対談