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パラ陸上の鉄人から後輩にエール「向かい風はそのうち追い風になる」

6/21(水) 11:22配信

webスポルティーバ

 先ごろ引退を発表した、パラ陸上・車いす短距離界のスペシャリスト、永尾嘉章さん。国内屈指のスプリンターとして第一線を駆け抜け、「やっててよかった」と話す陸上人生には、どんな人との出会いやターニングポイントがあったのか。この30年間の歴史を振り返ってもらった。

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 1988年のソウル大会から7度、パラリンピックに出場した永尾さん。5歳でポリオ(小児まひ)を発症。両足が不自由になったが、高校時代に車いす陸上を始めた。国際大会で初めて金メダルを獲得したのは、今から35年前、19歳の時のこと。国際ストーク・マンデビル大会(※)の、コース上に置かれた旗門を指定された方法で通過した時間を競うスラロームという種目で、世界新記録を出して優勝した。永尾さんはこの時のことを、「初出場でしたが、とくに浮足立つこともなく走れたことを覚えています。このころから怖いもの知らずだったのかなぁ」と笑って振り返る。
※パラリンピックの原点とも言われる歴史ある大会

 実は当時、陸上だけでなく車椅子バスケットボールの選手でもあった永尾さんは、なにげなく見に行った陸上競技で衝撃を受けたという。

「87年の国際ストーク・マンデビル大会は車椅子バスケットボール日本代表として出場しました。この大会はいくつかの競技・種目が開催されていたので、空き時間に陸上を観戦に行ったんです。すると、当時のトップランキングの選手や、(のちに「パラリンピックの鉄人」と呼ばれる)スイスのハインツ・フライがレースをしていて、『うわ、なんて格好いいんや!』と、彼らのスピードとパワーに釘付けになりました。速い人を見たら一緒にやりたくなる性分だから、”勝負したい!”と思いました」

 バスケと陸上の二足のわらじで競技を続けるなかでも、このときの感情が消えることはなかった。

 そして、90年のゴールドカップ(当時の車椅子バスケットボールの世界選手権)日本代表に選ばれたことで、バスケには気持ちの面で区切りがつき、陸上へと転向した。

 まだバスケも続けていた89年のフェスピック(※)神戸大会では100m、200m、400mの3種目で金メダルを獲得している。陸上に専念後の99年のニュージーランドの国際大会では100mで3位、200mで2位、400mで優勝という成績をおさめ、車いすレーサーとしても一躍トップアスリートの仲間入りを果たした。
※1975年から2006年までに9回開催された、アジア・オセアニア地域の障がい者スポーツ大会。現在はアジアパラ競技大会となっている。

 しかし、その先には茨の道が待っていた。「30年陸上をやってきたけど、あまり表彰台には立てなかった。それだけ厳しい世界だった」と永尾さん。出場するT54は車いすのなかで、もっとも障がいが軽く、世界的にも選手層が厚いクラス。大会のレベルが高くなると、体格に勝る海外勢に水をあけられるようになったのだ。

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