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忘れてはならない日。天皇陛下と沖縄県民の「知られざる」心の交流【評論家・江崎道朗】

6/21(水) 9:00配信

週刊SPA!

【江崎道朗のネットブリーフィング 第14回】

トランプ大統領の誕生をいち早く予見していた気鋭の評論家が、日本を取り巻く世界情勢の「変動」を即座に見抜き世に問う!

◆米軍統治下での沖縄県民の苦しみ

 6月23日は、沖縄戦終結の日。

 今からおよそ30年前の学生時代、沖縄に何度も訪れたことがある。

 沖縄戦、基地問題を沖縄の人たちがどう考えているのか、訊いて回ったのだ。

 多くの出会いがあったが、そのなかで今でも鮮明に記憶している人がいた。それは那覇市内の繁華街「国際通り」で沖縄の衣装「かりゆし」をつくって販売しているお店を営むTさんだ。この方は両親と妹を沖縄戦で亡くしていた。Tさんは遺されたもう一人の妹を抱えて戦後、生き抜いてきたのだが、学生だった私にこう語ったのだ。

「江崎さん、私は米軍に両親と妹を殺されたんだ。それが戦争に負けて沖縄は米軍の統治下に置かれたんだ。その苦しみは本土の人にはわからないだろう」

「どういう意味ですか?」

「肉親を殺した仇である米軍にニコニコと笑いながら頭を下げて、かりゆしを買ってもらって生き延びてきた。その苦しみが本当にわかるのか? 目の前にいる仇に笑顔で売らないと自分と妹は食っていけなかったんだぞ」

 その方は日本に復帰すれば、米兵に媚を売らなくて済むと期待していたそうだが、米軍はそのまま残り、強い失望と怒りを覚えたと語った。

 沖縄全戦没者追悼式には必ず参列するというTさんは「日本の安全保障上、沖縄に軍事基地が必要なのはわかっている。しかし、それならばなぜ自衛隊ではなかったのか。天皇陛下を崇敬しているし、沖縄戦は正しかったと思っているからこそだ」と語った。

「沖縄を日本だと思うのなら、なぜ自衛隊によって沖縄を守ろうとしないのか」

 このような沖縄の人々の真情をきちんと受け止めなかった政府の姿勢が、現在の基地問題の根底にあることは理解しておくべきだろう。

 異国に支配される苦悩と、独立国家のもとで自由に暮らしたいという願い――そのような沖縄県民の願いを形にした像が、那覇市にある波上宮に建立されている。

 さきほどのTさんから教えてもらったのだが、本土復帰の2年前の昭和45年に建立された明治天皇像で、その台座には「国家」という文字が刻まれている。

「国家を失った沖縄だからこそ、明治天皇が築かれた『独立国家』日本に早く復帰したいと沖縄県民は願ったのだ」と、波上宮の神職の方は説明する。

 マスコミが報じないことも大きな要因だろうが、こうした「日本という独立国家」に対する沖縄県民の思いを、本土の側が十分に理解しているとはとても思えない。

◆日本人として忘れてはならない4つの日

 そんな「すれ違い」に心を痛められてこられたのが、天皇陛下だ。

 昭和56年8月7日に行われた記者会見で、当時、皇太子殿下でいらっしゃった陛下は「日本人として忘れてはならない4つの日がある」とおっしゃった。

 その4つの日とは、8月6日の「広島原爆の日」、 8月9日の「長崎原爆の日」、8月15日の「終戦記念日」、そして6月23日の「沖縄戦終結の日」である。

 天皇皇后両陛下はこれら4つの日を特別な日とお考えになり、戦没者の慰霊のために終日、お慎みになられる。終戦五十年の平成7年には、「慰霊の旅」と称して広島、長崎、沖縄、東京をご訪問になり、戦没者の追悼と遺族の慰問に全力を傾けられた。

 両陛下が初めて沖縄をご訪問になったのは、皇太子時代の昭和50年7月のことであった。

 国際海洋博覧会開会式ご臨席のためだが、陛下の強いご希望で、南部戦跡を慰霊巡拝なされた。南部戦跡とは、沖縄を守るために全国から馳せ参じた戦没者の慰霊塔が立ち並ぶ摩文仁の丘がある「平和祈念公園」や「ひめゆりの塔」のことだ。

 昭和47年5月に本土復帰してから僅か3年しか経っておらず、県内には「皇室」打倒を叫ぶ過激派の活動家たちが跋扈していた。

「戦跡を廻るのは危険だ」と宮内庁は反対したが、陛下は「石くらい投げられてもよい」とのお気持ちから慰霊巡拝を断行された。

 ひめゆりの塔を訪問された際、過激派から火炎瓶を投げられた事件は有名だが、そんなテロに遭遇されても、陛下の「沖縄への思い」はいささかも揺るがなかった。

 陛下は、沖縄独自の文化である琉歌の形式に則って、摩文仁の丘を訪問されたときのことをこう詠まれている。

摩文仁(昭和五十年)

ふさかいゆる木草めぐる戦跡くり返し返し思ひかけて

 生い茂る木や草の間の戦跡をめぐったことよ、戦争のことを繰り返し繰り返し思いながら、という意味だ。

◆沖縄戦戦没者慰霊祭で唄われる天皇陛下の「琉歌」

 日本最古の歌集である「万葉集」は、基本的に雑歌(ぞうか)・挽歌(ばんか)・相聞(そうもん)の三つで構成されている。

 このうちの「相聞」は、一般には恋の歌と思われているが、その原型は、近親、知人の間に贈答された歌だ。「呼ぶ歌」に対して必ず「応える歌」があり、歌のやりとりを通じて心を通じ合わせる。こうした文学の伝統が日本には存在する。

 万葉集以来のこうした伝統を踏まえたのかどうかはわからないが、陛下の「戦争のことを繰り返し繰り返し思いながら」と「呼びかけた歌」に対して、沖縄は「応えて」いるのだ。

 毎年6月23日、沖縄戦で亡くなられた全ての戦没者に対する追悼式が、摩文仁にある平和祈念公園で行われている。その前夜祭が毎年6月22日、同じ平和祈念公園内にある沖縄平和祈念堂にて財団法人沖縄協会主催で実施されている。

 この前夜祭では、三百名ほどの遺族が参列し、琉球古典音楽の献奏と琉球舞踊の奉納を行う。沖縄に古くから伝わり、親しみのある伝統芸能で戦没者の御霊を鎮めたいとの沖縄県民の祈りがこもった慰霊祭がこの前夜祭だ。

 この前夜祭において献奏の最初に唄われるのが、陛下のあの琉歌なのだ。

 献奏を行っている琉球古典音楽湛水流保存会会長の島袋英治氏は、その理由をこう述べている。

《天皇陛下の琉歌に「くり返し返し思ひかけて」という表現がありますが、この表現はすごいと思ったのですね。

 なぜかというと、戦争が終わって、戦の跡はほとんど元に戻って、木や草もたくさん生い茂ってどこで戦があったかわからなくなっている今だが、しかし、繰り返し繰り返し、この当時のことを思い出して、亡くなった方たちのことを思いながら二度と戦争を起こしてはいけない、今後の平和を皆で考えていこうという、その想いが、この表現にあって、私はこの歌を歌うたびに感動しています。

 決して忘れてはいけない、そして、いつまでもみんなで平和を作り上げていくんだという強いお気持ちをここからいつも汲み取れるのです。

 ですから、これを歌う度に、天皇陛下のお気持ちを非常にうれしく思います。》(松井嘉和編『天皇陛下がわが町に』明成社)

 沖縄と本土の対立も、それが事実ならばきちんと報道されるべきだが、同時に沖縄と本土、特に沖縄と皇室のこうした「相聞」も丁寧に報じるのが公平な報道というものではないだろうか。

 6月23日の沖縄戦終結の日には「戦争とその後の占領下の苦しみ」や「皇室と沖縄の心の交流」に思いを馳せ、静かに黙祷を捧げたいものだ。

【江崎道朗】

1962年、東京都生まれ。評論家。九州大学文学部哲学科を卒業後、月刊誌編集長、団体職員、国会議員政策スタッフを務め、外交・安全保障の政策提案に取り組む。著書に『アメリカ側から見た東京裁判史観の虚妄』(祥伝社)、『マスコミが報じないトランプ台頭の秘密』(青林堂)、『コミンテルンとルーズヴェルトの時限爆弾』(展転社)など

日刊SPA!

最終更新:6/21(水) 9:00
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