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南北朝の再来か!応仁の乱で西軍が「もう一人の帝」を擁立したワケ

6/22(木) 18:10配信

サライ.jp

文/酒寄美智子

中公新書『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(呉座勇一著、中央公論新社)の大ヒットをきっかけに、応仁の乱がかつてないほどの注目を浴びています。

これまで「複雑でわかりにくい」と敬遠されることが多かった応仁の乱。中でも、その全容をわかりにくくしている要因の一つが、11年という期間の長さでしょう。そこで本稿では、“なぜ応仁の乱はここまで長引いたのか”という点に着目し、あらためて『応仁の乱』を読み解きます。

今回は、応仁の乱を“新たな段階”へと進めた「南帝」擁立の顛末をご紹介しましょう。

■「大義名分」を手に入れた西軍

応仁の乱が長期化の様相を呈してきた文明元(1469)年11月、南朝皇子の末裔兄弟が兵を挙げました。

乱勃発からさかのぼること約130年の建武3(1336)年、後醍醐天皇が政権抗争の末に吉野で独自に朝廷を開きました。これが南朝、これに対して京都の朝廷が北朝と呼ばれ、その後、元中9(1392)年に南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に“譲位”するまでの半世紀強が“南北朝時代”と呼ばれています。

応仁の乱で蜂起したのは、この南朝皇族の後胤とされる兄弟でした。まだ10代と若かったものの後南朝勢力に推され、兄は南朝が興った大和国吉野の奥で、弟は紀伊国熊野で蜂起したのです。

この兄弟に西軍は深い関心を寄せました。本書の著者で日本中世史を専門とする著書の呉座勇一さん(日本史学者、国際日本文化研究センター助教)は、その理由をこう解説します。

「西軍は足利義視(あしかが・よしみ)を擁立したものの、しょせん義視は将軍の弟にすぎず、しかも後花園法王から『朝敵』の烙印を押されていた。西軍は大義名分の面で依然として東軍に劣っていたのである。このため、南朝皇族の血を引く後裔を天皇として推戴することで、東軍の天皇・将軍の権威に対応するという構想が生まれた」(本書より)

唯一、後南朝一派と勢力圏が重なっていた畠山義就(はたやま・よしひろ)は異論を唱えたものの、ときの将軍・足利義政(あしかが・よしまさ)の弟ながら西軍の一員だった義視(詳しくは「哀しき宿命か!応仁の乱収束の芽を摘んだ将軍兄弟のすれ違い」参照)の説得もあり、西軍はこの兄弟を擁立することで一致しました。

■「南帝」擁立と義視の心変わり

文明3(1471)年8月、西軍は南朝皇胤(兄)を“新主上(新天皇)”として京都に迎えました。南北朝時代の終焉から約80年を経て「南帝」となったこの若者は、ひとまず山名宗全(やまな・そうぜん)の妹がいる西陣近くの尼寺・安山院を仮宮とします。

ところがここで、擁立に賛成だった義視が突如、反対に回ります。

義視が急に立場を変えた理由を、呉座さんはこう指摘します。

「一番大きいのは、朝倉孝景の裏切りによって東西両軍の均衡が崩れたことではないか。義視は西幕府の今後を悲観し、兄義政との和解の道を探り始めたのだろう。そんな中での南帝擁立は、義視にとって百害あって一利ない愚策であった」(本書より)

このころ、西軍の一員だった朝倉孝景(あさくら・たかかげ)の寝返りをきっかけに、東軍が勢いを取り戻しつつありました(詳しくは「シーソーゲームか!応仁の乱の均衡を揺さぶったキーマン2人」参照)。

義視は、そんな勢力バランスの変化を敏感に感じ取っていたのです。

■「いち権力抗争」の域を超えた大乱に発展

ともあれ、「南帝擁立」という事態は当時の人々に大きな衝撃を与えました。

本書では、興福寺の高僧・尋尊と経覚がそれぞれ「公家滅亡の基」(尋尊)、「いよいよ東西両軍の争いを終わらせることは難しくなるだろう」(経覚)といった意味の感想を書き残していたことが紹介されています。著者の呉座さんはこう続けます。

「応仁の乱はもともと幕府内の権力闘争であったが、南帝の擁立によって、新たな段階に進んだ。それは、『北朝の軍隊』として『室町の平和』を守るという、室町幕府の役割が失われたことを意味した」(本書より)

この「南帝」そのものは無情にもその後数年で捨て去られてしまいますが、大義名分を求めた西軍の動きによって応仁の乱はもはや足利政権下での権力闘争の域を超え、政権そのものの権威を揺るがす大乱となったのです。

以上、今回は応仁の乱の大きな転換点となった「西軍による南帝擁立」についてお伝えしました。詳しくはぜひ本書をお読みください!

【参考書籍】
『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』
(呉座勇一著、本体900円+税、中央公論新社)

文/酒寄美智子

最終更新:6/22(木) 18:10
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