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分断されたグローバル社会を生きるための想像力

6/24(土) 11:20配信

Wedge

 トランプ政権への支持をめぐるアメリカ国内の状況や、日本におけるマイノリティ市民へのヘイトスピーチなどを見ていると、分断されたこの社会の一端を垣間見ることができる。果たして我々はどんな社会を生きているのか。そうした疑問に対し、社会学を用いて1つの見方を示してくれるのが『分断と対話の社会学 グローバル社会を生きるための想像力』(慶應義塾大学出版会)だ。今回、この本を執筆した慶應義塾大学・塩原良和法学部教授に「グローバリゼーション」やそれによって引き起こされた「分断」、「対話」や「想像力」の重要性などについて話を聞いた。

――国内外問わず、先進各国で「分断」が叫ばれています。本書のタイトルにある「分断」や「対話」、「想像力」は現状のキーワードということでしょうか?

塩原:本書の元となったのは、私が勤務先の大学で開講している「社会学」や「社会変動論」の講義です。そこでは「対話」や「共生」という言葉は前々からキーワードになっていましたが、「想像力」の重要性について考え始めたのは比較的最近です。

 きっかけは、「越境社会」をテーマにした学際的な研究会を人文社会系の若手・中堅研究者と2014年に立ち上げたことです。そこでは、「越境」という概念で現代を読み解くことの有効性や、越境することで得られる、自分とは異なる人々やその人たちが生きる現実への想像力の重要性を議論しました。

 越境するということは、そもそも私たちの生きる社会に境界線が張り巡らされているということです。その境界線は物理的な国境だけではなく、文化の違いや貧富の格差、不平等や差別といった形で象徴的にも引かれています。そして社会が分断されるとは、ただ境界線があるだけではなく、私たちが境界線の向こう側に生きる人々の現実や思いを想像できなくなってしまうことです。

 最近、海外に目を向ければイギリスのEU離脱や、米国のトランプ政権の誕生、難民問題に端を発する欧州での排外主義の台頭などがありました。日本国内を見ても、在日コリアンを対象とするヘイトスピーチや差別は依然として深刻であり、神奈川県相模原市の障がい者福祉施設では、優性思想に感化された人物による大量殺人というヘイトクライムが起きました。私は神奈川県の多文化共生施策への助言や、外国人住民支援の現場との連携協働にも少し取り組んでいるので、相模原の事件や、川崎で起きたヘイトデモには個人的に強く思うところがありました。こうした出来事が起こる背景に、社会全体として、他者への想像力が枯渇していく分断の深刻化があるのではないかと感じました。

 それゆえ、格差や不平等、差別や排除といった従来からの社会学の切り口に加えて、「分断」という視点から現代社会を考察しなければならないのではないか、それを大学生にも考えてもらいたいと思ったのが執筆の動機です。

――社会的分断が世界各地で起きる現状を、社会学ではどのように捉えているのでしょうか?

塩原:たとえば、グローバリゼーションの進展との関係から捉えることができます。この本ではグローバリゼーションを「資本主義市場経済の拡大とともに国境を含むあらゆる境界がゆらぎ、世界中で政治、経済、社会、文化の相互浸透・相互依存が進行しながら、それが対立や葛藤を生み出していく過程」と定義しています。それはまさに「世界がひとつになりながら、分断していく」という一見矛盾した変化です。世界はシステムとしてはひとつになり、グローバルな価値観が広がり文化はハイブリッド化していきますが、そのような接触や混交がまさに摩擦や対立を生み出し、我々とかれらは違うという意識を高める。

 ただ紛争や対立が起こるだけではなく、人々がどのくらい自由に越境できる能力をもつかに応じて、グローバリゼーションを異なった現実として経験するということが重要です。影響力のある社会学者であったジグムント・バウマンは、これを「旅行者」「放浪者」というメタファーで表現しました。前者はいわゆるグローバル・エリート、後者は難民などをイメージしてもらえばいいと思います。両者は同じように国境を越えて移動しますが、その経験はまったく異なっている。グローバル・エリートは市場経済の論理に基づいて国境を越えますが、その先でもミドルクラス的生活様式を維持します。事情が変われば、かれらはまた次の国に移ることでしょう。こうして自由自在に移動するかれらにとって、世界はまさに「庭」のようなものです。

 いっぽう、難民も同じように国境を越えますが、それは自分の意思によってではありません。かれらにとって移動は、自由を奪われて「流される」経験に他なりません。これは厳密な意味での難民だけではなく、「〇〇難民」というふうに比喩的に表現されることもある、グローバリズムと新自由主義の台頭によって貧困や不安定な立場に置かれるようになった人々にも当てはまります。かれらは社会階層的、ライフコース的、あるいは人生の意義という意味で、より悪い方向へと自分の意思に反して移動させられます。かれらの経験するグローバリゼーションの現実は、自由に移動する力を比較的持っている人々とは異なっている。

 このようにして、人々がますます異なった現実を経験し、他者の生きる異なる現実への想像力がますます失われていくのが、グローバリゼーションのもたらす分断なのです。などと訳知り顔で言っている私も、トランプ政権の発足やイギリスのEU離脱決定といった出来事を見るにつけ、自分自身もまた、ひとつの分断された現実のなかで生きていることを痛感しました。

――同じ日本に生きている人同士でも、同じことがいえるのでしょうか?

塩原:たとえば、私が慶應義塾大学で開講している授業ではアクティブ・ラーニングの一環として、川崎市の社会教育施設で大学生がボランティアで中学生に勉強を教えます。その学習支援教室に通ってくる子どもたちの家庭は、生活保護を受給している世帯です。いわゆる「貧困の連鎖」に由来する低学力や低い学習意欲・自己肯定感、乏しい将来展望などを改善していこうというのが、この施設が教室を開く目的です。

 現代日本の貧困は見えにくいと言われていますが、確かに外見や持ち物からは、自分たちとそれほど違わないのではないか、と大学生は最初思うようです。しかし何回も教室に通い、中学生たちと親しくなっていくにつれて、かれらの育ってきた家庭環境や現在置かれた状況、そしてかれらにとって「現実的」な将来展望の選択肢の狭さと、自分たちのそれとの違いについて、さまざまな思いを抱くようになります。授業期間が終わっても、そのまま教室に通い続ける大学生もいます。

 いっぽう中学生にとっては、その学習支援教室で会うボランティアの大学生が、周囲にいるほぼ唯一の大学生や大卒者である、という場合も多いようです。社会活動家で法政大学教授の湯浅誠さんが、貧困支援のボランティアの大学生に会って「大学生って本当にいるんだね」と感想を述べた中学生のエピソードを紹介していましたが、同じようなことを言われたり感じたりした、と私に報告してくれる大学生も何人もいました。

 地域の学習支援教室のような場で出会って交流を深めるまで、大学生も中学生も、お互いの生きる現実について想像できない、お互いの存在が視野に入っていない状況があったわけです。グローバリゼーションの進行が格差や不平等の拡大を伴うのであれば、そのような現実の分断が深刻な問題になっていくと予想されます。

――ところで、分断された国の中で、排斥運動などを行う団体に共通しているのはナショナリズムへの熱さだと感じます。分断とナショナリズムの関係について社会学ではどう考えるのでしょうか?

塩原:排外主義とナショナリズムの関係を考えるには、オーストラリアの人類学者ガッサン・ハージが提起した「パラノイア・ナショナリズム」という概念が有効でしょう。それは、既得権益を失いつつある中間層の人々のパラノイア、つまり被害妄想がナショナリズムとして活性化するという議論です。

 グローバリゼーションは、資本主義市場経済における競争を激化させます。すると、競争に勝ち残るために際限なく時間短縮・効率化を推進する、社会の「加速化」が起こります。しかし、そのような加速する競争に勝ち残れるのはごく一部の人々で、その他大勢の人たちの生活からは「居場所」や「ゆとり」が失われていく。

 「居場所」は、私たちが自分のいる場所を自らコントロールする力によって生まれ、「ゆとり」とは私たちが自分の時間を自らコントロールする力のことです。つまり、「居場所」や「ゆとり」がないということは、私たちが誰かに時間や空間をコントロールされているということです。こうした状況がどんどん深まると、我々の経済社会的な立ち位置は、どんどん不安定になる。自分の人生が「流されていく」のでは、誰かに自分の人生が操られているのでは、いずれ自分は「用済み」となり、廃棄処分になってしまうのでは、という不安が高まる。このように不安定な状態に置かれた人々のあいだに漠然とした不安が広がっていくことが、現代社会の特徴だと言われています。

 こうして不安定になり、不安になった人々は、傷つきやすくなります。だから「傷つきやすさ」は個人の精神状態であると同時に、経済・社会的な不安定さに人々が晒されているという問題でもあります。傷つきやすくなった人々の間でしばしば起こるのは、自分たちを不安にさせている原因探しです。その原因として難民や非正規入国・滞在者、生活保護受給者、国内のマイノリティといった自分より弱い立場の人が槍玉に挙げられ、抑圧移譲が起こります。実際にこうした社会的弱者が多数派の人々の既得権益を脅かすとすれば、よほどのことですが、冷静に分析してみればそのような主張には確たる根拠がないことも多い。にもかかわらず被害妄想に囚われた人々は、マイノリティを排除して、マジョリティ国民たる自分たちの権益を「守る」あるいは「取り戻す」ことを目指し、国家にそれを期待する。それをメディアが煽ったり、ポピュリズム的な政府が利用する結果、移民・難民の排斥や福祉受給者へのバッシングといった排外主義的なナショナリズムが様々な国で台頭する。

――冒頭でもお話いただきましたが、こうした分断を乗り越える鍵となるのが「想像力」であると。ただ、先生が言う「想像力」とは、小学校のときに道徳で習う相手の立場に立って考える、ということではないですよね?

塩原:それは意表を突かれた質問です(笑)。道徳の授業で「他人の気持ちになって考えましょう」と教えているとしたら、それはそれで良いことだと思います。でもそれは多分、他者への「共感」のすすめです。共感とは「他者の経験や感情を自分のことのように感じる」と定義できます。しかしこれまで述べたように、分断とは他者と共感することが非常に難しい状況、お互いに反感や憎悪を抱きあっている状況、そもそも他者が存在することが私たちの視野に入っていない状況を言います。それを打開しようとするとき、共感のすすめだけでは限界がある。だからこの本ではあえて、共感と想像力を区別することから始めています。

 本書では他者に対する想像力を「個人が知識を活用しながら、自らの共感の限界や制限を押し広げて、他者を理解しようとする努力」と定義しています。そしてこの定義は、人は他者のことを100パーセント理解することは不可能なのだ、というところから出発しています。他人は自分とは違うのだから、100パーセントは理解できない。それでも、他者とそれを取り巻く現実について学ぶことで、少しずつ、理解していくことはできる。結果的に共感できなかったとしても、理解を深めることはできる。

 ということは、想像力は自然に養われるものではなく、知識とともに「学ぶ」ものでもあるということです。だから他者に対する想像力を培うことは、大学教育の重要な目的になります。大学は基本的に知識を学び、知るために通う場所だからです。知ることを通じて他者への理解を深めていく知的営みとしての想像力を学ぶこと、そこに、大学における教養教育や人文社会系教育のひとつの意義があると私は思っています。

――ただ、対話をしようとする意志のない人と、どう想像力を使い、対話をしていけば良いのでしょうか?

塩原:初めから対話をする意志がある人と対話することより、対話する気のない人とどう対話するかの方がはるかに難しいですよね。大学生からも、よく質問されます。

 この本では、対話をグローバリゼーションの時代における人々の共生を実現するための基本的な行動原理であるとする立場を「対話主義」と名付けてみました。それに対立する立場が、広い意味での「原理主義」です。つまり、特定の価値観などを絶対視し、対話によって自身が変容する可能性を拒絶する態度のことです。

 対話主義者と原理主義者との対話は、どうすれば可能になるのか。心情的な原理主義者、つまり自分の信心に凝り固まり、他者と対話する能力が低い人に対しては、そうした頑なな信心を持つに至った背景を徹底的に想像することが必要です。一方、相手との論争に勝つためにあえて聞く耳を持たないでいる戦略的な原理主義者に対しては、勝ち負けにこだわる相手の裏をかいて勝ち負けではない話し合いへと引き込んでいく手練手管を考える想像力が、必要です。どうしたら他者との対話が可能になるのかを考える対話的想像力には、他者へのケアと、きれいごとだけでは済まないずる賢さの、両方が必要になると思います。

――対話を実行し、社会の分断を一つひとつ元に戻していくには、どんな取り組みが考えられますか?

塩原:この本は社会学の入門書の形を借りた、私なりの時代診断の試みなので、提案とか提言の要素はあまりないのですが・・・。強いて言えば、この時代における「ゆとり」と「居場所」を回復する試みだと思います。先ほど申し上げたように、それは私たちがどのようにして自分の時間や場所をコントロールできるようになるかという問いへの応答です。

 そのためには、人と人とが時間をかけて、ひとつの場所や社会で共存していくための対話のメカニズムを、社会のいろいろな局面に埋め込んでいくことだと思います。

――具体的には?

塩原:たとえば、国政レベルでの熟議民主主義、地域社会における人のつながりづくり、企業や組織におけるファシリテーション、そして教育現場におけるアクティブ・ラーニング。すでにさまざまな場面で、いろんな人たちが取り組んでいます。スローライフやエコロジー、まちづくり・地域づくり、子ども食堂……。私の授業では、外国にルーツをもつ若者のための地域の居場所づくり活動や、定時制高校の校舎でカフェを運営し、高校生と大学生が自然な雰囲気のなかで語りあう場所をつくる試みも行っています。

 これらは、まったく違う分野の活動のように見えるかも知れません。実際、それぞれの活動に取り組んでいる人が、別の分野にも関心や理解があるとは限りません。でも私には、加速化する時代に抗して人々の時間・空間的な自律性を回復していこうという、共通した問題意識があるように思えます。

――ひとりひとりの身近な取り組みから、ということでしょうか?

塩原:人と人とのつながりは、力をもたらしてくれます。これを社会関係資本ということもあります。境界線を越えて人と人とがつながり、社会関係資本が掛け合わさっていくことで、個人の些細な行為が思わぬ波及効果をもたらすことがあるのが、グローバリゼーションが進む現代のもうひとつの側面です。いわゆる「バタフライ・エフェクト」ですね。こういう時代では、とりあえず身近なところから始めてみて、あとはなりゆきに任せてみる、というやり方も意外と有効かもしれないよ、と大学生に話すこともあります。

 最近の学生には、理想主義者だと思われることを避ける傾向があるようです。理想を語る人よりも「リアリスト」の方が優れている、と思い込みがちなんですね。リアルに現実を見ることは確かに大切ですが、それと体制(大勢)順応は区別しないといけない。体制(大勢)順応と区別されるとき、リアルに現実を見るというのは、目指すべき理想のあり方に一歩でも近づくために、とりあえずできることは何かを考える「しぶとさ」に他ならない。理想を持って、希望を持って、とりあえずやってみる、というのが、グローバル社会でリアルに生きることなのではないかな、と思います。これは米国の社会学の巨人イマニュエル・ウォーラスティンが、トランプ大統領が当選した当時にインタビューで語っていたことでもあります。

――出版後、同業者の方も含め、どんな反応がありましたか?

塩原:私はこの本を書くとき、大学の教師として、いま一番学生と語りあわなければならないことは何なのか、ということを考えていました。お世辞かもしれませんが、何人かの同僚や他大学の同業者から、自分がいま授業で学生に教えたいと思っていることにとって参考になった、という感想をいただいています。それは、私にとってはとても心強いことです。同じような問題意識を持っている大学教員は、決して少なくはないのだな、と。

 大学生向けのテキストの体裁をとっているので、一般向けとはいえないと思いますが、専門的な概念もなるべくわかりやすく解説したつもりです。社会学の概念を用いて現代社会をどんなふうに捉え直すことができるのか、興味があれば手に取っていただければ嬉しいです。いまの世の中、なんか見通しが悪いな、とモヤモヤしている人には、参考にしていただけるかもしれません。

本多カツヒロ (ライター)

最終更新:6/24(土) 11:20
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