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今日は何の日 維新三傑の一人、木戸孝允(桂小五郎)が生まれる

6/26(月) 6:40配信

PHP Online 衆知(歴史街道)

天保4年6月26日

天保4年6月26日(1833年8月11日)、木戸孝允(桂小五郎)が生まれました。幕末の長州藩を代表する志士であり、薩長同盟締結にも立ち会い、「維新三傑」の一人にも数えられることで知られます。今回は幕末の頃になじみ深い小五郎の名で通します。
天保4年、小五郎は長州藩萩城下の藩医・和田昌景の長男に生まれました。天保11年(1840)、8歳で桂家(150石)の養子となります。同13年(1842)に藩校・明倫館に通い始めますが、嘉永元年(1848)、元服した年に実母と姉を相次いで亡くすと、悲観して出家すると口走りました。しかし翌年、藩校で吉田松陰に兵学を学び、その才を松陰から賞されるに至ります。時に松陰20歳、小五郎17歳。師弟というより、友人というべき間柄でしょう。
同じ頃、剣術を学び始めて頭角を現わし、嘉永5年(1852)には萩を訪れた神道無念流・斎藤新太郎と出会って、江戸に剣術修行に赴きます。そして斎藤弥九郎(新太郎の父)の練兵館に入門、免許皆伝を得ました。やがて練兵館の塾頭を務めるまでになりますが、ペリー来航には大きな刺激を受け、師の斎藤弥九郎の仲介で伊豆韮山代官の江川太郎左衛門に入門し、西洋兵学を学びます。また浦賀奉行与力・中島三郎助からは造船術を、長州藩士の手塚律蔵からは英語を学ぶなど、時代の変化に対応すべく最新知識を吸収するよう努めました。
万延元年(1860)、水戸藩尊王攘夷派と密約を結び、高杉晋作や久坂玄瑞など亡き吉田松陰門下生の先輩格として長州藩内で重きをなし、尊王攘夷運動の指導的立場となります。しかし西洋兵学や英語を学んでいたように、小五郎の攘夷論は観念的なものではなく、当時、開国派と見做されていた勝海舟や横井小楠にも会って、意見を聞いていました。オランダ語や英語に通じた村田蔵六(大村益次郎)を、小五郎が藩に推挙するのもこの頃です。
文久2年(1862)には上洛し、他藩渉外役、政務座副役などの重役に任じられます。しかし翌年、8月18日の政変で長州藩と朝廷内の尊攘派公卿は失脚、多くの者は国許に引き揚げますが、小五郎は京に残り活動を続けます。翌元治元年(1864)6月、事態打開のため暴発を図る長州藩の過激派と浪士たちが三条池田屋で新選組に捕殺され、小五郎は間一髪で難を逃れました。翌月、上洛した長州軍が御所へと向かい、幕府方に撃退される禁門の変が起こると、長州藩は朝敵の烙印を押されます。乞食に身をやつして橋の下に潜伏する小五郎に、芸妓の幾松が食べ物を運んだという話はこの時のこと。長州藩は幕府より長州征伐を受けることになりますが、小五郎は対馬藩の手引きで但馬出石に潜伏します。この辺の呼吸は、「逃げの小五郎」の異名を想起させるでしょう。
幕府の前に恭順した長州藩でしたが、高杉晋作らの決起によって藩政府は転覆、小五郎は慶応元年(1865)、藩に呼び戻されました。やがて土佐浪士の坂本龍馬、中岡慎太郎らの奔走で翌年1月、京都で薩長同盟が結ばれ、小五郎もその場に立会います。薩摩藩からの武器援助などもあり、同年6月からの第二次長州征伐では、長州藩が幕府軍に圧勝。翌慶応3年(1867)、大政奉還により徳川幕府は滅び、王政復古の大号令とともに新政府が発足しました。
明治政府で小五郎は参議、文部卿などを歴任し、岩倉使節団全権副使として欧米を歴訪、版籍奉還、廃藩置県など困難な政策を実行していきます。しかし脳発作のような持病に悩まされ始め、朝鮮への使節派遣、台湾出兵に反対、出兵が強行されると辞職しました。その後、参議に復職するものの病に倒れ、西南戦争の最中に病没しました。臨終の際、見舞いに訪れていた大久保利通の手を握り締めながら、「西郷もいい加減にせんか」が最後の言葉であったといいます。享年45。
維新大業を成した同志たちと、明治国家建設というさらに困難な仕事にあたりながら、最後の言葉にどんな思いを込めていたのでしょうか。墓所は京都東山の霊山で、維新前に倒れた多くの志士たちとともに眠っています。

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