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国籍に翻弄されたサッカー人生。それでも日本代表になる夢を追い続けた

6/26(月) 11:00配信

週プレNEWS

今週から、サッカー解説者・宮澤ミシェル氏の連載コラム『フットボールグルマン』がスタート。

現役時代、Jリーグ創設期にジェフ市原(現在のジェフ千葉)でプレー、日本代表に招集されるなど、日本サッカーの発展をつぶさに見てきた生き証人がこれまで経験したこと、現地で取材してきたインパクト大のエピソードを踏まえ、独自視点でサッカーシーンを語る――。

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1993年5月にJリーグが誕生してから今年で25年。Jリーグ創設時、私はジェフ市原(現在のジェフ千葉)でプレーしていた。現役時代を知らない10代の若い人は「宮澤ミシェルって、どこの国のリーグでプレーしていたの?」と思っているかもしれないね。

この連載では、Jリーグが誕生する日本サッカーの端境期(はざかいき)に現役時代を送った私の視点で、日本サッカーの変遷や発展、苦悩など、懐かしい話から最新情報まで気ままに取り上げていくので、気楽に読んでもらえたら嬉しい。

連載1回目ということで、今回は自分自身のことを語ろうと思う。私は1963年7月生まれの53歳。フランス人でアコーディオン奏者の父と、日本人の母の間に生まれた。千葉県で生まれ育ったけれど、30歳で帰化が認められるまでの国籍はフランス。初めて帰化申請を出した16歳の頃は、行ったこともなく言葉も話せないフランスの国籍がその後のサッカー人生についてまわる問題になるとは思いもしなかった。

私は中学からサッカーを始めて高校まではFWでプレーした。高校卒業時にJリーグの前身である日本サッカーリーグ(JSL)の企業から声がかかったけど、「将来は体育の先生になる」という想いもあって国士舘大に進んだ。

1年生の時からボランチや左サイドとしても試合に出場しつつ、2年生の後半にFWでレギュラーを掴(つか)んだ。自信と意欲に溢(あふ)れ、大学が休みの期間も寮に残ってスピードを磨く練習に精を出していた頃に突然の転機が訪れた。

3年生に上がる前の春休みキャンプ2日目、監督から呼び出されて「今年から新しい挑戦をしてもらう。センターバック(CB)をやるんだ」と告げられた。ものすごくショックだったよ。ゴールは決めていたのに「FWとしては不要だ」と言われたのも同然だったからね。それで、すっかり人間不信になってしまった。

監督の考えは変わらなくて、練習ではDFのパート練習に呼ばれて1対1で抜かれ、練習試合で使われてはダメを出され続けた。でも、そこで闘争心に火がついたんだ。

DFとして成功するためにどうするかを必死に考えて、「FWとは逆の心理だ。自分がDFにされてイヤだったことを思い出そう」と意識すると、1対1で相手を止められるようになった。そのうちに余裕が生まれ、自分の意志で周りを動かす面白さにハマっていった。

外国籍だったがゆえに、各世代の日本代表に呼ばれない寂しさや悔しさもあって、FWでいくら活躍してもひとりで戦っているような感覚があった。それが、CBにコンバートされたことで、初めて仲間と戦うことを実感できた。その時にはもうDFとしての手応えを掴んでいたよ。

4年生に上がってからもキャプテンを続けて、大学卒業を前に5チームほどのJSLの企業から声がかかった。「JSLでサッカーを続ける」と両親に告げた時のことは鮮明に覚えている。母は「教員になりたくて大学に行ったんじゃないの?」と驚き、父は音楽家として契約社会に生きていたから、「給料はいくらだ。ケガをしたら費用は誰が負担するんだ。昼飯は誰が用意するんだ」と、現実的なことばかり気にしていたね。



そんなふたりを説得して、フジタ工業に入ったのが1986年。ちょうど、日本サッカー界がアマチュアからプロ化へと動き始めた頃だった。日本人として初めてドイツのブンデスリーガでプレーし、プロ選手として活躍していた奥寺(康彦)さんが国内に復帰するため、“スペシャル・ライセンス・プレイヤー”という制度ができた。まだ日本にはプロチームはなかったけど、選手がプロとしてサッカーができる環境に変わり出していたんだ。

私も1年目は営業事務部に所属する「半分社員、半分サッカー選手」という状況だったのが、レギュラーになった2年目からはプロ契約選手に変更してもらった。その時のエピソードはあらためて紹介するけど、フジタ工業は昔からセルジオ越後さんをはじめ、多くの外国人選手が所属していたこともあって外国人選手に寛容だったから、私の性分に合っていた。

フジタ工業は読売クラブと毎シーズンのようにタイトルを争い、JSLをけん引する存在だった。でも、1990-91年シーズンはJSL2部に落ちて、91年にJリーグの概要が発表された時にプロ化しないことが決まってね。だから私は、1991―92年シーズンのJSL2部優勝を置き土産にジェフ市原への移籍を決意する。当時は社会的に移籍がしにくい状況にあった中、「生まれ育った千葉のクラブでプロとしてプレーしたい」という想いを多くの人の尽力によって実現することができた。本当に感謝している。

そして1993年には、悲願だった日本国籍を取得。初めて申請を出してから14年の年月が経っていた。今なら二重国籍を持つ人も一定の年齢になったらどちらの国籍を選ぶか選択できるけど、その制度が施行されたのは大学4年生の頃で、私にはすでに選択権はなかった。「ユニバーシアードの代表になれる!」と喜んだ直後に、その制度の対象外だと知った時は落ち込んだね。

帰化申請の手続きでは何度もツライ体験をさせられた。今は違うかもしれないけど、日本の役所で酷い対応をされたり、警察が抜き打ちで家に来て、所持品や貯蓄額をチェックされたりもしたよ。さらにフランス大使館ではアポイントを取っていても延々と待たされ、いざ話をしても「帰化したい」という声をまったく聞き入れてくれなかった。

どこに行くにも外国人登録証明書が必要だったから大変だったね。それでも諦めることなく申請を続け、長女が生まれた1993年にようやく帰化が認められた。その時には30歳になっていたから、年齢的にもう日本代表に選ばれないと思っていた。

翌1994年、ジェフ市原はリトバルスキーら外国人アタッカーを中心に好調だった。私も違和感がある足に針を打ちながら騙(だま)し騙しプレーしていたけど、清水エスパルス戦で肉離れを起こしてしまった。初めて日本代表に選出されたのを聞かされたのはその直後。「なんでだ!」っていう気持ちになったよ。代表に選ばれると事前に知っていたら、清水戦は無理して出なかっただろうからね。

代表選出後にクラブハウスで記者会見を開いた時には、もう足はボロボロの状態。プレーするのは無理だとわかっていたから、悔しいけど最終的には辞退した。結局、日本代表のユニフォームに袖を通す夢は叶わないまま、1995年に引退を迎えることになる。

「もっと早く帰化申請がおりていれば…」と考えたこともある。だけど、外国籍だったからこそ、多くの外国人選手たちと交流が生まれ、“日本育ちの日本人”では経験できないこともたくさんあった。そういう経験を通じて見てきた日本サッカー界のことを、この連載では語っていこうと思っている。

【日本代表への憧れ】 星5つ ☆☆☆☆☆

(構成/津金一郎 撮影/山本雷太)

■宮澤ミシェル
1963年 7月14日生まれ 千葉県出身 身長177cm フランス人の父を持つハーフ。86年にフジタ工業サッカー部に加入し、1992年に移籍したジェフ市原で4年間プレー。93年に日本国籍を取得し、翌年には日本代表に選出。現役引退後は、サッカー解説を始め、情報番組やラジオ番組などで幅広く活躍。出演番組はNHK『Jリーグ中継』『Jリーグタイム』など。

最終更新:7/8(土) 22:20
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