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【文庫双六】太宰治と心中 富栄の心情を描く――梯久美子

6/26(月) 11:30配信

Book Bang

 心中した作家といえば、まず浮かぶのが太宰治。今から69年前の6月13日、美容師の山崎富栄と玉川上水に身を投げた。遺体が発見された6月19日は、太宰の39歳の誕生日だった。

 梅雨どきで連日の雨。玉川上水は水かさが増し、なかなか遺体が上がらなかった。蓑笠姿の男たちが長い竹の棒で川の中を探って捜索している写真を見た覚えがある(本棚を捜したら、日本近代文学館が編集したちくま学芸文庫の『図説 太宰治』に載っていた)。

 友人の作家や評論家、編集者などの中には、心中相手の富栄を悪しざまに言う者もいた。学生時代の私は太宰ファンで、彼の死についての論評をずいぶん読んだが、あれは富栄による無理心中だとまことしやかに書かれているものもあった。

 太宰の死を惜しむあまりのことだったのだろうが、一般の読者には、独占欲の強い女に、心身の弱っていた太宰が引きずられるようにして死んだというイメージが植えつけられた。

 そんな中でほぼ唯一、富栄の生い立ちを調べ、日記も発掘して、正しい人物像を描こうとしたのが、在野の研究者・長篠康一郎だった。1970年代に出た『雨の玉川心中』を当時の私は瞠目して読んだが、文壇ではほとんど注目されなかった。

 前置きが長くなったが、松本侑子『恋の蛍』は、長篠氏の研究の上にさらに綿密な取材を加え、富栄の人物像を鮮やかに描きあげた評伝小説である。日本最初の美容学校創立者の令嬢で、華族の十二単の着付けやおすべらかしを結う技術も父母から受け継いだ一流の美容師だった彼女が、いかにひたむきに一人の作家を愛したか。

 小説の形をとってはいるが、これまでどんな研究者もたどり着けなかった新事実をいくつも明らかにしている。読みながら、富栄の真情に胸を打たれるとともに、作者の取材力、調査力に驚嘆させられた。男たちが寄ってたかって作り上げたスキャンダラスな神話から一人の女性を救い出した、感動的な評伝である。

[レビュアー]梯久美子(ノンフィクション作家)
かけはし・くみこ

新潮社 週刊新潮 2017年6月22日号 掲載

新潮社

最終更新:6/26(月) 11:30
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