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一の太刀を疑わず、二の太刀要らず!示現流の祖・東郷重位が没~今日は何の日

6/27(火) 19:20配信

PHP Online 衆知(歴史街道)

寛永20年6月27日

寛永20年6月27日(1643年8月11日)、東郷重位(ちゅうい/しげかた)が没しました。戦国から江戸にかけての剣豪で、薩摩島津家の示現流の開祖として知られます。示現流は「一の太刀を疑わず」「二の太刀要らず」といわれ、凄まじい斬撃で知られる薩摩独特の剣術ですが、いかにして生まれたのでしょうか。
重位は永禄4年(1561)、瀬戸口重為(東郷重為)の2男(3男とも)に生まれました。 瀬戸口氏は島津家家臣・東郷氏の縁戚で、後に東郷に姓を復したといわれます。重位の通称は弥十郎、または藤兵衛。 重位ははじめ、島津家の剣術師範より、丸目蔵人(まるめくらんど)の興したタイ捨流(新陰流の一派)を学んでいました。天正6年(1578)にはタイ捨流の免許皆伝を得ています。 また同年、18歳で初陣した高城川の戦い(耳川の戦い)で、武功を立てたと伝わります。
天正15年(1587)、27歳の重位は金工・蒔絵の技法を習得するために京都にのぼります。 天正15年といえば、秀吉による九州征伐で島津家が降伏した年でした。重位の上洛は、降伏後、島津義久に従ってのことであったのでしょう。 滞在していた宿の隣は、天寧寺という寺でした。重位は旅先でも日々の剣術の稽古を怠りませんでしたが、ある日、天寧寺の小僧が宿に来て、天寧寺の善吉和尚が語っていたという言葉を重位に伝えます。
「隣のお客人は剣術に心がけてまことに奇特な御仁ではあるが、まだまだ素人のようだ。立木を打つ音を聞いていれば、それがわかる」
重位は早速、天寧寺を訪れて善吉和尚と話をしてみると、極めて剣に対する造詣の深い人物でしたが、肝心なところは「自分の流儀と違う」と言って、重位に語りません。
その後も重位はしばしば寺を訪れて、善吉の教えを乞いますが、口を閉ざしたままでした。 そして、これが最後の日と決めて訪ね、やはり何も得られずに辞去する際、障子に映る月影を見て、「にごりえにうつらぬ月の光かな」と一句を詠んで、帰りました。この句を見た善吉は、重位の剣にかける志の深さを知り、重位をすぐに呼び戻して、その夜から、自顕流の極意を伝授したといいます。
善吉は出家前の名を赤坂弥九郎といい、天真正自顕流を金子新九郎盛貞に学んで、17歳で皆伝を得ていました。 天真正自顕流は、金子の師・十瀬長宗が天真正伝香取神道流を学んだ後、鹿島神宮に参籠して開眼、新たな流派を興したものといわれます。 重位が善吉和尚から免許皆伝を得たのは、翌天正16年(1588)6月15日のことでした。
授けられた伝書は「尊形」「聞書」「察見」の3巻で、技の数はおよそ40あったとされます。 重位は善吉和尚から授かった天真正自顕流をそのまま継承するのではなく、さらに自らの工夫を加えました。 一説にすでに学んでいたタイ捨流と融合させたともいわれますが、そうしたこともあったのかもしれません。
薩摩に帰った重位の剣名はたちまち知れわたり、他流試合を望む者が次々と現われますが、46度勝負して、ただの一度も敗れませんでした。 慶長9年(1604)には島津家久の命で、タイ捨流師範・東新之丞と立ち合ってこれを破り、重位は家久の師範役となります。また坊泊の地頭職に任じられました。 家久は重位の剣を薩摩の剣として重んじ、他国に伝えることを禁じた「御留流」にするとともに、親交のあった臨済宗大龍寺の僧・南浦文之(なんぽぶんし)に新たな流派名を選ばせます。南浦文之は観音教の「示現神通力」から示現の文字を選びますが、もちろん自顕を意識してのことでしょう。
なお、重位は自らを律することは厳格でしたが、他人を敬い、極めて礼儀正しく、門弟たちが稽古を終えて帰る時には、いつもわざわざ玄関まで見送りに出たといいます。 寛永20年6月27日没。享年83。
示現流の極意について、重位はこう語っています。
「自分が大切にしている刀をよく研ぎ、よく刃を付けておき、針金で鞘止めをして、人に無礼を言わず、人に無礼をせず、礼儀正しくキッとして、一生、刀を抜かぬものである」
これは「刀は抜くべからざるもの」という大前提のもと、礼儀正しく、無用の諍いは避けること第一にせよ、ということですが、同時に、どうしても刀を抜かなくてはならぬ時は、一切迷わず、無念無想で敵を両断する。それだけの備えを常に怠るな、という意味でもあるのでしょう。

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