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クビになっても佐伯貴弘が毎朝6時にグラウンドに現れたワケ

6/28(水) 12:22配信

Wedge

 「2010年は、佐伯貴弘にとって、最高の年になりました」

 人生には生き方を根底から覆すような言葉に出合うタイミングが何度かある。私にとってのそれはこの言葉である。10年、佐伯は18年間在籍した横浜ベイスターズから戦力外通告を受けた。“2軍”のファン感謝デーにスーツ姿で現れた佐伯は、涙に声を震わせながら冒頭の言葉をファンに届けた。

 やりきれない思いも、言いたいことも、山ほどあるだろう。それら一切を飲み込み、力強い足取りでグラウンドを去っていく佐伯の背中ほど美しいものはない、とさえ思えた。憚(はばか)りながらではあるが、しばらく私の昔話にお付き合い願いたい。

 朝6時。太陽が昇るが如く、佐伯は規則正しくグラウンドにやってくる。誰もいないトレーニングルームで、2時間のトレーニング。「歯を磨くようなもの」と本人は嘯(うそぶ)くが、毎日の歯磨きも2時間だと、さすがに続ける自信がない。10年、佐伯は2軍にいた。当時40歳を迎えるベテランであったが、前年の09年には1軍で114試合に出場し、12本のホームランを放っている。この年、チームは新監督を迎え、村田修一、内川聖一を中心としたチームに若返りを図ろうとしていた。佐伯には、わずかなチャンスさえ与えられなかった。2軍でのチャンスさえ、である。それでも、2試合に一度あるかないかの代打のために、毎朝6時にやってくる。

 「あそこでふてくされるのは簡単やった。でも、そんな姿、誰が見たい? 俺には俺のやるべきことがあった」

 佐伯のやるべきこと。それは横浜を強いチームにすることであった。

 「1998年の優勝以降、強いチームでいることに全てを捧げてきた。それ以外は頭になかった。誰かに好かれようとか、よく思われようとか、そういうことには全く興味がなかった」

 小学校2年生のときに父が他界。母と祖母は朝早くから夜遅くまで働き、家計を支えた。その光景を見るたびに、「この人たちのために、俺はプロ野球選手にならなければならない」と、固く誓った。何かのため。佐伯の原動力は常にそこから生まれてくる。腐っている姿と、一生懸命な姿、どちらがチームのためになるかと考えれば、答えは明確であった。

 9月になった。2軍での代打の成功率は神がかっていた。それでも、1軍に呼ばれることはなく、2軍の遠征にすら帯同しなくなっていた。佐伯は横浜市内のホテルの一室に呼ばれ、来季の契約をしないことを告げられる。

 「5分。それ以上の話は必要なかった」

 この時点では、公表されていない戦力外通告。それでも、佐伯は朝6時にグラウンドにやってくる。チャンスがない中で、来季の契約がない中で、なぜ佐伯は6時にやってくるのか。

 「それをやめる理由がない。横浜での野球が終わっただけ。野球はまだ続いていく。チャンスがないっていう理由だけで、自分のやってきたことをやめるのは、あまりにもカッコ悪い」

 横浜におけるホームゲーム最終打席を2軍の試合で迎えた。この日、2軍の本拠地である横須賀スタジアムには、急きょ外野席が開放されるほどにファンが押し寄せた。鳴りやまぬ佐伯コールの中、横浜での野球を終えた。

 「いろんな自分を見ることができた。何度も諦めそうになった。それでも、屈しなかった。やり抜くことができた。そんな、最高の1年だった」

 1998年の日本一のメンバーであり、18年間球団を支えてきた男は、戦力外通告を受けて球団を去った。後輩、チームスタッフ、ファンに、「最高の年だった」と言い残して。翌11月、中日ドラゴンズへの入団が決まった。

 1年後の11月。佐伯はナゴヤドームのベンチで泣いていた。クライマックスシリーズを制し、優勝を決めたその試合の中で。98年の優勝以来、強いチームに飢えていた男が久しぶりに味わう感覚に、感情が振れたのだろう。移籍した年に優勝。野球の神様が用意した舞台は、あまりにも粋である。同月、佐伯は中日から戦力外通告を受けた。それでも、引退する道を選ばなかった。

 「自分のやりたいことを貫くという気持ちと、断ち切ることができないという気持ちと、両方あった。やることを全てやって、終わりたかった」

 12年、野球浪人生活に入った。ボールなどの道具を自ら買いそろえ、球場を借り、キャッチボール相手を雇い、練習に励んだ。孤独な一年間である。それでも、佐伯はやり抜いた。11月、千葉ロッテマリーンズから入団テストのオファーが届いた。

 「テストの合否は正直関係なかった。野球場で、ユニフォームを着て野球をやらせてもらえる。それだけで、なんて贅沢(ぜいたく)なんだろうって、心から思えた」

 テストは不合格。そして、その後開催された合同トライアウトに参加。どこの球団からも連絡がないまま、年が明けた。それでも、佐伯は練習をやめなかった。

 1月28日。父親の命日でもあるこの日、練習を終えた佐伯は、静かに引退を宣言した。

 「この日まで練習して、連絡がなかったら、辞めよう。そう決めていた」

 浪人生活を含む、20年の現役生活に幕を下ろした。

 「結果には後悔ばかりだが、結果を残すためにやってきたことに後悔はない」。引退会見で述べた佐伯の言葉である。「結果を残すためにやってきたこと」を目の当たりにしてきた私にとって、この言葉はあまりにも尊い。最後まで、佐伯は自分の信念を貫いて引退していった。

 12年、私は戦力外通告を受け、トライアウトに臨んだ。1回目のトライアウトのとき、私はホームランを打った。それは、今まで打ったこともないような打球で、左中間スタンドに突き刺さった。2回目のトライアウト、そこには、ロッテの入団テストで不合格となったばかりの佐伯も参加していた。

 「佐伯さん、僕、佐伯さんの背中を見て、絶対諦めないって決めて、前回ホームラン打ちました」

 佐伯は、にっこりと笑って答えた。

 「よくやったね。たとえどんな結果になろうと、やってきたことに後悔がなければ大丈夫。ここまで準備してきたことは、必ず財産になる」

 私の野球人生最後の試合、そのフィールドに佐伯がいたこと。これにも、何かの意味があるのだろう。

 戦力外通告。それは、何の通告なのだろうか。

 「プロ野球選手になった者だけが、戦力外通告を受けられる。辞めていく者は“俺はプロ野球選手になったんだ”と、胸を張って辞めていってほしい」

 当時2軍監督だった田代富雄氏の言葉である。これまで、25人の戦力外通告について書き留めてきた。そこにはそれぞれの物語があり、それぞれにこの通告の意味があった。

 「判断は、人がするものではなく、自分がする。悲劇なのか、面白くするかは、自分次第」。佐伯のまっすぐな目が、まっすぐな言葉の一つひとつが、心に直接触れていく。

 「生きてると、苦しいことはいっぱいある。でも、必ずそれは後で生きてくる。何かの意味がある」

 言葉で、背中で、人の行動を変えられる。それを影響力と呼ぶのなら、私は影響力のある人間でいたい。(最終回。文中敬称略)

* * *

佐伯貴弘 Takahiro Saeki 1970年生まれ。大阪市東成区出身。尽誠学園、大阪商業大学を経て、1992年のドラフト会議にて横浜ベイスターズから2位指名を受け入団。98年はマシンガン打線の一角を担って活躍し、38年ぶりのリーグ優勝・日本一に貢献した。2010年は前年レギュラーとして起用されていたにもかかわらず、開幕から2軍行きを通告されて10打席の出場にとどまり、そのまま戦力外通告を受けた。中日ドラゴンズへ移籍し、日本シリーズにも出場したが、11月に二度目の戦力外通告を受ける。1年以上の浪人時期を過ごし、13年1月28日に引退を決意。14年から16年にかけて中日の2軍監督、1軍守備コーチを務めた。

高森勇旗 (元プロ野球選手)

最終更新:6/28(水) 12:22
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