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大田昌秀・元沖縄県知事死去 反基地知事は実はアメリカナイズされた人だった!?

6/28(水) 16:00配信

週刊SPA!

 沖縄県の元知事・大田昌秀氏が6月12日に亡くなった。92歳の大往生である。この日は大田氏の誕生日で、入院先の那覇市内の病院に集まった家族や琉球大学教授時代の教え子らが「ハッピー・バースデイ」を歌うのを聞き終えてから、すーっと眠るように息を引き取ったという。

 大田氏といえば、琉球大学でジャーナリズム論などを専門とする教授を経て、1990年の知事選で革新各党に担がれて当選。在任中の1995年に沖縄本島北部で起きた米兵による少女暴行事件をきっかけにした県民の怒りを背景に、米軍用地の強制使用の代理署名(地権者に代わって知事が署名し、用地の使用を認める方法)を拒むなど、政府に基地問題の解決を迫り続けた知事として知られる。大田氏と個人的に深い関係を築いていた橋本龍太郎首相率いる政権は、これに応えるべく米国政府との間で96年に米軍普天間飛行場の返還で合意すると、大田氏もいったんこれを歓迎。

「厳しい状況の中で、県民が最優先課題として求めていた普天間返還を実現させたことは、日米両政府の誠意の表れ。無条件の返還が望ましいが、それでは実現しない。より危険度の少ない関連で解決を図っていくことしか、われわれに道はない」

 そう述べていた。だが、その後、普天間飛行場の代替地として名護市辺野古沖がクローズアップされていくと、これを拒否して橋本政権と激しく対立した。

 1998年の知事選で敗北後は、2001年の参議院選挙で社民党から立候補し当選。一期務めてからは政界を引退し、那覇市内に沖縄平和国際研究所を設立した。多くの著書を書き、沖縄戦では鉄血勤皇隊(太平洋戦争末期の沖縄で動員された日本軍史上初の14~16歳の学徒による少年兵部隊)に動員され九死に一生を得た経験をもとに発信を続けた大田氏は、メディアによってさながら反戦平和の伝道師であるかように位置づけられてきた。

 ただ、行政のトップとしての評価について、『沖縄を売った男』(扶桑社刊)で取材した前知事の仲井眞弘多氏は、大田県政で2年半ほど副知事を務めたにもかかわらず、かなり手厳しい。

<仲井眞から見れば、大田は政府との対立ばかり。「尻拭いばかりさせられていたという感じ。大田さんは政府と揉めてばかりだから、誰かが詫びないといけない。それが私の役目でした。山中貞則さんから始まり、国交省に行き、防衛庁に行きと。理想主義的なのはいいんだけど、やはり行政実務に乏しいなあという印象は拭えませんでしたね」(中略)政府との距離感や基地問題へのアプローチで考え方の違いを埋められず、大田と対立を重ねた仲井眞は二年半で副知事を退任した。理想論に突き進む大田の県政運営は理解できないものと映ったのだろう。>(『沖縄を売った男』より引用)

 公平さのために大田氏が副知事だった仲井眞氏をどうみていたか、記しておこう。

<仲井眞氏は大田氏と基地問題や県議会の対応でたびたび対立。4年の任期を待たずに退任することが既定路線となっていた。天皇、皇后両陛下を迎えて糸満市で開かれた93年4月の全国植樹祭を担当副知事として統括することにこだわり、6月に県庁を去る。大田氏は「(仲井眞氏は)国との関係を保つのは当然という雰囲気を常に感じていた。官僚だから上(政府)の言うことを聞くのはどうしようもない」と振り返る。>(2014年3月16日付『沖縄タイムス』)

 通産官僚出身で、政府とも関係を維持しながら行政実務を進めることを重視する仲井眞氏と、学者出身で反基地の立場で知事選に当選し政府と対峙することを求められた大田氏とでは、もとより水と油の関係なのかも知れない。

 筆者は生前の大田氏に幾度か取材を申し入れたことがあるが、残念ながらいずれも叶わなかった。彼が亡くなった後、那覇で会った琉球大学時代の教え子にあたる元県幹部は、大田氏の考え方の底流にあるのは、「親米反日」だと言っていた。橋本政権をはじめ日本政府の対沖縄政策を厳しく批判し、もちろん米軍による沖縄統治にも著書『沖縄の帝王 高等弁務官』などで批判を展開したが、沖縄で最もアメリカナイズされた知識人だというのである。

 大田氏は、米軍統治下の沖縄で苦学して英語を学び、早稲田大学の英文学科を経て米国東部のシラキューズ大学に学んだ。この時代の沖縄のエリートの証しである「米留組」である。

 現在のハーバービューホテルにあった米国民政府の幹部職員らの社交クラブ・ハーバービュークラブを舞台に活動した「金門クラブ」のメンバーであり、会長を務めたこともある。金門クラブとは米国留学経験者からなる親睦団体。親米的な知識人層の形成を期待する米軍側の思惑もあり、米軍統治下の沖縄において米国と深い繋がりを持ち、パワーエリートとして特権的な立場を有した。そのため、「向米一辺倒」「アメリカの親衛隊」などと陰口を叩かれることもあったが、大田氏はそう見られることを嫌い、『沖縄の帝王 高等弁務官』のなかでこう書いている。

<宗主国もしくは植民国へ留学した人たちのあいだから逆に後年、母国の大衆の期待に応え、宗主国の利害に対立する形でみずからが学んできた知識・技能を活用した有能な指導者が輩出した事例はいくらでもある。したがって、留学先がアメリカだったということだけで、十把ひとからげに評価を下すことは、偏見と独断のそしりを免れ得ないことはむろんである>

 ただ、大田氏は身につけたアメリカ的な生活スタイルを長く大切にし続けたという。

「ノリの利いた白いYシャツを着ることを好み、家族はハワイに暮らし、プライベートはしっかり休みを取る。知事在任中は、休みになると電話にも出ず連絡が取れなくなることがしばしばあり、県の職員は困ったものです」(元県幹部)

 那覇最大の歓楽街の松山で数々のエピソードを残すほどの大酒飲みとして知られる大田氏がこよなく愛したのは、泡盛ではなくシーバスリーガル。ウィスキーを好む習慣は留学中の米国で身につけたものだと言われる。

 その大田氏の知事在任中に、県議会で最も厳しく対立したのが、現知事の翁長雄志氏だ。

「保守、革新を超越した基地反対闘争の結集を訴えるのは県民向けの受けのいいポーズであり、マスターベーションにすぎないと同時に、県民の結束をみずから放棄していると言われても仕方がありません」

 かなり品のない発言だが、1994年3月7日に開かれた県議会本会議ではこう大田氏をなじっている。発言の揚げ足取りを得意とする翁長氏に、大田氏が顔を真っ赤にして怒り出して「そんなに言うのならあんたがやってみろ」と言うので、議場が大爆笑となったこともあると自民党の元県議から聞かされたこともある。

 そういう経緯もあったからなのか。翁長氏が「オール沖縄」を掲げて知事を目指すようになっても、大田氏はまったく評価しようとせず、知事選で応援することもなかった。この頃、東京外大教授の山田文比古氏のインタビューに、名指しこそ避けつつも、翁長氏についてこう喝破している。

「私が県知事であったときに基地反対に一番抵抗していたのが、今頃になってオール沖縄などと唱えている連中だ。そうした過去の経歴や主張を見ると、信用できない。いつ変わるか分からない連中だ。(中略)この連中がいんちきなことを始めているとしか私には思えない」(『オール沖縄VS.ヤマト 政治指導者10人の証言』(青灯社))

 大田氏が亡くなった日、翁長知事は県庁で会見し、「今後も沖縄の歴史や沖縄戦の実相を後世に伝え、平和創造に向け中心になって取り組んでいただけると思っていたが、かなわぬこととなり残念でならない」とコメントした。

 生前はけっして大田氏と良好な関係だったとは言えない翁長知事だが、7月26日に県が主催して宜野湾市内で県民葬を開くことを決めた。

 当選以来、政府との対決姿勢で臨み、名護市辺野古沖の埋め立てをめぐり政府と法廷闘争を続ける姿は、米軍用地強制使用の代理署名をめぐり政府と最高裁まで争った大田氏のそれに重なるものがある。沖縄の戦後史に大きな足跡を残した先達に自らを重ねあわせているのだろうか。 <取材・文/竹中明洋>

日刊SPA!

最終更新:6/28(水) 16:00
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