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今日は何の日 上杉鷹山、高山彦九郎の師、細井平洲が没

6/29(木) 12:10配信

PHP Online 衆知(歴史街道)

享和元年6月29日(1801年8月8日)、細井平洲が亡くなりました。儒学者で、上杉鷹山や高山彦九郎の師匠として知られます。
享保13年(1728)、平洲は尾張国知多郡平島村(現、愛知県東海市)の農家の二男に生まれました。通称は甚三郎。幼少の頃より学問を好み、16歳で名古屋、京都に遊学。17歳の時に、尾張藩家老竹腰氏の家臣・中西淡淵の塾に入門します。延享2年(1745)、淡淵の勧めで18歳の平洲は長崎に赴き、3年ほど唐人のもとで中国語を学びました。さらに宝暦元年(1751)、24歳の時、師の勧めで江戸に赴き、私塾「櫻鳴館」を開いて、武士だけでなく農民や町人にもわかりやすく学問を教えました。内容は実学を重んじ、経世済民(世を治め、民を救うこと)を目指すもので、その評判から西条藩、人吉藩、紀州藩、大和郡山藩などより、学問の師として迎えられるに至ります。
そして宝暦13年(1763、翌年とも)、当時14歳の米沢藩次期藩主・上杉治憲の師となりました。名君で知られる、後の鷹山です。平洲は治憲の教育に力を注ぎ、3年後に藩主となった治憲は、平洲の教えを活かし、人材育成を通して藩の財政再建を成功させていきます。平洲は治憲が藩主に就任する際、「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行なわんかな」という言葉を贈ったといいます。「何を行なうにしろ、勇気を持つことが大切である」という意味でした。米沢藩の藩校・興譲館を命名したのも平洲です。「興譲とは譲を興すと読ませる。譲を興すとは恭遜の道を繁盛さすること也」と自ら記しています。平洲は江戸だけでなく、米沢に三度赴いて講義を行ないました。鷹山(治憲)は終生、平洲を敬慕し、その師弟の交誼は今も語り継がれています。
また平洲が米沢滞在中に訪ねてきて、その門下となったのが高山彦九郎でした。高山は「学問を修めることで自分が改革を行ない、世の中の役に立ちたい」という志を述べて、入門を許されたといいます。 安永9年(1780)、平洲は53歳の時に尾張徳川家に招かれて、9代藩主・徳川宗睦の待講となり、また藩校・明倫堂の初代督学(学長)として学問の振興に努めました。さらに藩内各地で廻村講話(講演会)を行ない、庶民教育にも尽力したといいます。
享和元年、平洲は江戸で没しました。享年74。 東海市役所の入口にある平洲生誕のまちの碑には、「先施(せんし)の心」と刻まれています。先施の心とは平洲の教えの一つで、「相手からの働きかけを待つのではなく、自分から先に進んで相手に働きかけることによって、相手の心を動かす」という意味だといいます。勇気をもって、自分から進んで取り組む姿勢の大切さは、弟子の上杉鷹山の行動を見れば、しっかりと伝わっていることがわかります。この師にしてこの弟子あり、の好例といえるでしょう。

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