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小早川秀秋の関ケ原での優柔不断、その後の乱行は、アルコール性肝硬変のせいだった?

6/29(木) 12:10配信

PHP Online 衆知

小早川秀秋の不可解な行動を生んだ病気

関ヶ原の戦いの最中まで東西どちらにつくか決断できなかった小早川秀秋の謎は、謎ではなく必然だったのだ。また、乱行伝説のとおりではなくとも、秀秋が実際に異常な行動をとった可能性は大いにあった。それはなぜか。解析してみよう。
関ヶ原の戦いでの小早川秀秋の不可解な行動は、彼の病気に起因するのだ。では、秀秋の病気、およびその異常な早死にの原因は何だったのか。そのヒントは思わぬところにあった。秀秋の病気を記した古文書の大発見、と言いたいところだが、すでに史料として確立している文書だ。ただ、医学的に適切な解釈がされていなかったのである。その解釈を初めて行ったのが本小論だ。
一般に、歴史家、文学者は史料の探索・収集、人文科学的なことの読み解きには秀でているが、医学も含め自然科学的なことになると、内容の理解が不十分なことがある。それに対し、医師は医学的知識は豊富だが古文書を読み解けないし、その内容に関心がないことが多い。そのはざまに秀秋の謎が漂っていたのだ。
秀秋は、この時代の伝説的名医・曲直瀬玄朔の診察を受けていた。そして、その病状は玄朔の診療録である『医学天正記』の「黄疸」の章に次のように記されていたのだ。

岡山中納言秀秋公 十八九才
酒疸一身黄心下堅満而痛
不飲食渇甚

まず、岡山中納言と書かれている。秀秋は関ヶ原の戦いの後に、それまでの筑前から岡山(備前・備中・美作)51万石になった。それが11月なので、それより後の診察であったことがわかる。関ヶ原の戦いのあった年、秀秋は数え19歳だ。年をこすと20歳となるはずなので、関ヶ原の戦いのあった年の11月か12月の診察時の所見ということになる。
病名は酒疸だ。酒疸とは大酒による黄疸のことだ。そして、この後の部分が重要なのだ。
秀秋は全身が黄色く、心下(心窩部)が硬く腫れて痛みがあり、飲食ができず、激しいのどの渇きがあったと記されている。
アルコール性の肝障害の症状だが、黄疸があったので重症だ。そのような重症の肝障害で、心窩部(みぞおち)の触診(指先で体の表面を押さえて臓器の異常を診察すること)でとらえられた、硬く腫れた臓器といえば肝臓だ。また、触診により痛み(圧痛)があったのだ。
硬く腫大した肝臓がふれて黄疸があるので肝硬変だ。酒が原因であることは明らかなので、アルコール性肝硬変である。普通、アルコール性肝硬変といえば、中年以降のアルコール依存症に多く見られる。しかし、信じ難いことだが、秀秋はわずか数え19歳でアルコール性肝硬変であった。
だが、驚くにはあたらない。昔の武将たちは11歳から17歳の間に元服して大人の仲間入りをしたので、若くして酒浸りになる者が多かった。そのため、「酒害」で早死にした例は多い。未成年の肝臓は、まだ未成熟なので成人よりもはるかに飲酒の被害を受けやすいのだ。このような特殊事情をわかっていないと、秀秋のように若くして肝硬変になることは理解できないだろう。

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最終更新:6/29(木) 12:10
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