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江戸・伝馬町の牢屋敷を高野長英が脱獄~今日は何の日

6/30(金) 7:10配信

PHP Online 衆知(歴史街道)

弘化元年6月30日

弘化元年6月30日(1844年8月13日)、江戸・伝馬町の牢屋敷が焼け、高野長英が脱獄しました。長英は蘭学者で外国船打払いを批判し、脱獄後に逃亡生活を送ったことで知られます。
長英は文化元年(1804)、仙台藩水沢留守家の家臣・後藤実慶の三男に生まれました。通称は悦三郎。9歳の時に父を亡くし、叔父で医者の高野玄斎の養子となります。玄斎は江戸で杉田玄白から蘭方医学を学んでおり、また祖父の元端も漢方医であったことから、長英は幼い頃から学問の手ほどきを受け、特に蘭学に興味を示しました。
文政3年(1820)、17歳の時に兄や従兄弟とともに江戸に出て、やがて蘭方医・蘭学者の吉田長淑に入門。しかし兄や従兄弟と異なり、長英の江戸行きは家族の反対を押し切ってのものでした。長英は吉田のもとで学問に励み、師の長の字を与えられて「長英」と名乗ることになります。
文政5年(1822)、兄が病に倒れ、長英の看病もむなしく江戸で他界。借金が残った長英は吉田の塾を辞め、町医者を開業して生計を立てます。しかし火事で家が焼けるなど、苦しい生活が続きました。そんな折、シーボルトが長崎で蘭学や蘭方医学を教えていると聞いた長英は、矢も楯もたまらず留学費用を工面して、文政8年(1825)、長崎に赴いてシーボルトの鳴滝塾に入門、内弟子となります。時に長英、22歳。以後3年間、シーボルトの薫陶を受けて長英の語学力は飛躍的に向上し、平戸藩主・松浦侯が所蔵する蘭書20冊を、僅か1年ですべて翻訳しました。
ところが文政10年(1827)、仕送りをしてくれていた養父・玄斎が国許で死去、親類より水沢に戻るよう命じられますが、長英は承知しません。折しも長崎でシーボルト事件が起き、たまたま不在であったため難を逃れますが、これをきっかけに長崎を離れることになった長英は、郷里の高野家と義絶する道を選びました。田舎の医者ではなく、「日本一の蘭学者になりたい」という思いを抑え切れなかったのです。
九州、京都と2年ほど講義しながら旅し、長英が江戸に戻ったのは天保元年(1830)、27歳の時でした。武士の身分を捨て、麹町で町医者を開業する傍ら、蘭方医学書の翻訳を精力的に行ないます。特に三河田原藩の重役・渡辺崋山の紹介で小関三英、鈴木春山ら蘭学者と知り合ったことは大きく、ガリレオやジョン・ロックなどの多方面の翻訳も共同で手がけました。また天保3年(1832)には天保の大飢饉の対策会である尚歯会にも参加、天保8年(1837)にアメリカ商船の打払いを幕府が命じた「モリソン号事件」が起こると、理由も聞かずに外国船を攻撃する異国船打払令を批判した『戊戌夢物語』を仲間内で回覧するなど、政治的発言も行なうようになります。
しかしこうした長英と仲間の動きを幕府が察知し、天保10年(1839)、目付・鳥居耀蔵の指示で長英や崋山らが捕縛されました。いわゆる「蛮社の獄」です。町人の長英に下った判決は「永牢」(無期懲役)でした。天保12年(1841)、11代将軍家斉の死去に伴う恩赦で多くの囚人が放免されますが、長英は許されず、牢名主となります。一方、同志の崋山は蟄居の後、自刃して果てました。牢内で囚人たちの医療にあたりながら長英は、この頃から次第に脱獄を考え始めたようです。
弘化元年(1844)、牢屋敷内に火災が発生し、長英はそれに乗じて脱獄しました。火災は、長英が牢で働く者に放火させたといわれます。その後の足どりは不明ですが、水沢で暮らす老母と対面し、それから江戸に潜伏していました。やがて鳴滝塾の同門・二宮敬作の仲介で密かに宇和島藩主・伊達宗城の庇護を受けることになり、宇和島に赴きます。
伊達家で長英は有志に蘭学を教え、翻訳事業に携わりますが、追われる身であるため心身が休まることはなく、酒量が増えていきました。1年後、幕府が察知した疑いがあることで、長英は宇和島を去り、江戸に戻ります。一説に硝酸で顔を焼いて、人相を変えていたともいわれます。当時、幕府は洋書の翻訳・出版を禁じており、生計を立てるため、やむなく長英は人前に顔を晒さなければならない町医者を開業しました。しかし潜伏1年余りの嘉永3年(1850)10月30日、奉行所の捕り方に踏み込まれ、応戦した後、脇差で自ら喉を突いて絶命したといわれます。享年47。
時代の変化の風をいち早く感じ取っていた先覚者の死は、ペリー来航の4年前のことでした。

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