ここから本文です

櫻井よしこ氏 サムライ精神抱くこれまでの人生

7/1(土) 7:00配信

NEWS ポストセブン

 ジャーナリスト・櫻井よしこは1945年10月、日本の敗戦直後で大混乱の中にあったベトナム・ハノイの野戦病院で生を受けた。アジア各国を舞台に手広く貿易を営んでいた父がハノイに居を構えていたからだ。母は万一、フランス軍や連合軍がハノイに攻め込んできた時には、3階の窓から飛び降りて死ぬ覚悟を決めていたという。

 翌1946年5月、すべての財産を没収され、一文なしになった櫻井一家は、米国船籍のリバティ号に乗って命からがら浦賀にたどり着いた。しばらく新潟県小千谷の母の実家で骨を休めた後、母の実家から幾ばくかの資金を工面してもらい、父の地元・大分県中津市で再起を図る。住んだのは引揚者優先の「六軒長屋」と呼ばれる小さな家だった。

「木造の質素なおうちでね。でも敗戦した日本政府が住居のない国民のために建ててくれた精一杯の住宅ですよ。水道はなくて、水は井戸水を水瓶に蓄えていました。少ししてから隣町のちょっと上等な二軒長屋に引っ越して、中学2年の夏まで過ごしました」

 当時の思い出を聞くと、「遊んだ記憶しかないのよ」と櫻井は笑う。

「蓮華畑で転げ回ったり、近くの山国川で泳いだり。新田の浜は遠浅で、アサリやハマグリがたくさん採れた。初夏になると水を張った田んぼに周囲の山々が映って、本当に綺麗でした。秋は黄金色に染まって、風が渡っていくと黄金の波ができる。美しい日本の原風景ですね。みんな貧しかったけれど、楽しく幸せに生きることが仕事のような毎日でした」

 やがて父が家に居つかなくなると、母は子供たちを連れて再び新潟に戻ることを決意。仕事を求めて小千谷からほど近い長岡市に移った。

 気候も温暖で開放的だった中津から、長岡藩時代からの質素倹約の気質が色濃く残る雪深い地へ。多感な年頃の櫻井は、同じ日本でありながらまったく異なる風土や文化を知る。

 高校は、明治5年創立で男子は真冬でも素足で過ごすという「剛健質撲」「和而不動」の長岡高校に通った。

1/3ページ