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道の駅の看板娘からミスコンのファイナリストへ!女27歳の決断は、決して遅くはなかった

7/1(土) 5:20配信

東京カレンダー

母校となる中学は過疎化により廃校。高校へは片道30キロ道のりを家族に支えられながら、卒業までの3年間を毎日往復した。

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週末の日課は、一週間分の食事を隣町まで買いに行くついでに、スーパーで東京の垢抜けた女性モデルたちが活躍する雑誌を買う事だった。

宮城の田舎にある道の駅の看板娘を経て、現在はメジャーなミスコンのファイナリストにもなっている彼女は、どんな人生を歩んできたのか。小学生の頃まで時計の針を戻してもらう。

地方出身のコンプレックスを抱えた美女佐藤仁美

「宮城県の超田舎に生まれて、1学年は7名。幼稚園から中学3年まで女子4人、男子3人のずーっと同じメンバーでした。だから高校に入ってびっくり。えっ、1年5組!? 出席番号26番って何? みたいな(笑)。小学校から高校までバドミントン部で、結構真剣に打ち込みましたよ」

時は流れて2011年、もうすぐ正社員として職に就くのが目前だった3月、宮城を震災が襲う。

「就職どころではなくなって、友達を頼って栃木で職を探しました。最初は友達の部屋に転がりこんで、やがて仕事が見つかったのでひとり暮らしを始めたんです」

栃木で働きながら、休日に東京のモデル事務所でレッスンを受ける日々は、それなりに充実していた。そんな時、仁美さんはひとりの男と出会う。

その男と付き合うようになり、生活を共にする人ができたという喜びに浸る中、お互いの価値観や物事に対する捉え方に微差が生じる事で、男が悪い方向へどんどん変化していったという。彼女はその時のリアルな経験を、今もまだ忘れられないと話す。

「あれからもう4年になりますが、ドラマや小説のようなステキな恋愛というものからはずいぶん遠い世界で生きているような気がします。でも、女性として生まれた事に何か意味があるはずだし、今はステキなキッカケを探しています」

モデルに挫折。女優にも向かなかった私が出会ったのはミスコン

それからしばらく、仁美さんは上京を決意する。上京したのは4年前、2013年だった。

「右も左もわからなくて、でもすぐに住む場所は決めなければいけなくて、中目黒の不動産屋さんに薦められるがままに、都立大学駅近くの部屋に決めました」

改めてモデル事務所に登録してレッスンを受け始めた仁美さんだったが、ここで挫折を味わう。

「私が田舎者だったと言えばそれまでなんですが、女性モデルって赤文字系(女子大生、若年OLなど20歳代前半ぐらいの女性を対象としたファッション雑誌)だとばかり思っていたんですよ。それが通っていた事務所はモード系で、すごくギャップがありました。
東京の女の子たちはとても主張が強くてかっこよかったです。私は自分が田舎出身という事を勝手にハンデと思い込んでいたんです。だからこそできる主張や魅せ方があるという事に、その当時は気づく事ができませんでした」

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