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大繁盛した江戸時代のノーパン喫茶

7/3(月) 12:00配信

BEST TIMES

『江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 文政六年(1823)の春、宇田川町に若鶴、白滝という二軒の水茶屋が開業した。
 若鶴の看板娘は十八、九歳、白滝は三十歳くらいだったが、ともに絶世の美女だった。それぞれ、看板娘のほかに二、三人の女中を置き、客に茶を運ばせた。

 当初はそれほどでもなかったが、いつのまにか評判が広がって客がつめかけるようになった。座敷では酒や料理も出し、芸者を呼んで宴会も開くようになった。こうなると、客筋は金のある豪商の隠居や、諸藩の留守居役などにかぎられ、一般の客はとても立ち寄れなくなった。
 しだいに店構えも派手になり、表の間口はわずか三間ほどだが、奥行を二十間ほどに広げ、たくさんの座敷に仕切った。その座敷で茶屋女が客を取るようになり、「ちょんの間」が金三分、月ぎめの契約が五両だった。

 若鶴と白滝はますます繁盛し、二朱や一分を出したくらいでは看板娘は顔も出さず、ほかの茶屋女が相手をした。
 諸藩の家老などが若侍ひとり、草履取りひとりを供にしてお忍びで訪れた場合など、家老には看板娘が出て、若侍には金二朱か銀十匁の女が相手をし、草履取りには上州や房州あたりから出てきたばかりの三十四文くらいの田舎娘が相手をした。こうして、主従ともども大満足というわけである。
 そのうち、若鶴と白滝の裏手に料理屋が二軒でき、仕出し料理も取れるようになった。一帯には幇間や芸者が行き交い、またたくまに遊里に変貌した。

 そのころ、あちこちで盗みを働いていた盗賊が町奉行所に召し捕られた。盗んだ金の使い道を問われ、盗賊は、「宇田川町の若鶴と白滝でほとんど使い果たしました」と、答えた。
 これがきっかけで、町奉行所が乗り出し、究明することになった。

 まず、看板娘ふたりを召し捕り、その後、役人が若鶴と白滝に乗り込んで調べると、夜着はびろうど製、風呂桶は溜塗など、贅を尽くした家具、調度品を用いていたという。
 いったん小伝馬町の牢屋に収監された看板娘は、取調べのため「もっこ」に乗せられて町奉行所に通ったが、そのたびごとにふたりは新しい浴衣に着替えた。道筋には、見物の男女が鈴生りになった。この人出を当て込み、簡便な茶屋までできたという。
 ふたりのどちらかに恨みがあったのか、ひとりの男が石を投げつけようとしたが、その場で付添の同心に召し捕られ、入牢した。

 その後、ふたりの看板娘はあっさり釈放された。もっぱら、「客だった大身の武士が、裏で手をまわしたに違いない」という噂が流れた。こうして女ふたりは釈放されたが、石を投げた男はまだ牢の中にいたという。
 若鶴と白滝の繁盛はわずか四、五ヵ月のあいだだった。

『我衣』に拠った。
 かつてノーパン喫茶やノーパンシャブシャブがマスコミをにぎわし、連日、大勢の客がつめかけた。まさに一世を風靡した。いま考えると、なぜあんなものがはやったのか、不思議でしようがない。馬鹿馬鹿しいかぎりである。
 若鶴と白滝の大繁盛も、ノーパン喫茶やノーパンシャブシャブの大流行に似ているかもしれない。
 当時、遊廓としては吉原があり、そのほか江戸の各地には岡場所があった。品川や内藤新宿などの宿場も事実上の遊里だった。男たちの遊び場には事欠かなかったはずである。
 そんななかでの若鶴と白滝の繁盛ぶりは奇異な気がする。冷却期間が過ぎたあと、当時の人々もきっと若鶴と白滝に夢中になっていたことが不思議でならなかったであろう。

文/永井 義男

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