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SPでも変わらない? 宮藤官九郎が『ゆとりですがなにか』で描く“ゆとり世代”の普遍的ドラマ

7/3(月) 6:00配信

リアルサウンド

 7月2日、7月9日に2週連続で放送される『ゆとりですがなにか 純米吟醸純情編』(日本テレビ)。2016年4月クールの連続ドラマ『ゆとりですがなにか』が帰ってきた。連続ドラマの最終回から1年後。続編としては早めの設定で、主人公の“ゆとり世代”3人組、正和(岡田将生)、山路(松坂桃李)、まりぶ(柳楽優弥)はどうなったかというと、正和は脱サラして家業である酒造会社の“営業部長”になり、小学校の教員である山路も“学年主任”に。30歳になった彼らの肩書きはちょっとえらそうになったが、その中身はあまり変わっていない。11浪の末、“入れる”大学に入ったまりぶも2人に再会すると、うれしそうに「おっぱいスか?」と叫ぶ(まだおっぱいパブの客引きをしているのか?)。

 もともと本作は、コミカルでギミック満載なドラマを多く描いてきた宮藤官九郎が、45歳にして初めて挑んだという社会派ドラマならぬ“社会ドラマ”だという。たしかに、連続ドラマ版では、「ゆとり世代」がゆとり教育を受けた1987年生まれ以降の若者を指し、ゆとり教育によって子供の学力が落ちたからか、社会に出てからも「これだから、ゆとりは」などと言われ軽視されるということが随所で説明されていた。しかし、タイトルが「ゆとりですがなにか」という切り替えしであることに象徴されるように、それは上の世代によるテンプレートなレッテル張りであり、ゆとりだろうとなんだろうと、20代後半の人間が直面する問題はそんなに変わらないということがドラマの展開では描かれていた。正和の後輩である“ゆとりモンスター”山岸(太賀)のような特異な例はあるにせよ(その数少ない例が世代の特徴のように思われてしまう)、正和が恋人の茜(安藤サクラ)との結婚にこぎつけるまでに苦労する様子や大企業を辞める決断するくだりは、世代に関わらず、多くの男性が30歳前後に経験したことではないだろうか。

 連続ドラマ版では正和と山路が生い立ちを振り返り、高校からゆとり教育を受け、リーマンショックによる就職氷河期を経験したことなどを愚痴って「ゆとりなんか感じたこと一度もないわ!」と嘆くのだが、世代の共通体験はあっても、ひとくくりにはされたくないという心からの叫びが真実を突いていて、見る者の胸を打った。

 宮藤官九郎は『ゆとりですがなにか』のシナリオブック(KADOKAWA)で、自分のような中年が「最近の若いやつらは」とディスるのは「世代間の思考停止を招く呪いの言葉なんじゃないか」という疑問を抱いたことが、本作の発想のきっかけだったと明かしている。そして、みずからその先入観を払拭するために、珍しくゆとり世代のサラリーマンに聞き取り取材をしたそうだ(その取材体験は、今回Huluで配信されるスピンオフ『山岸ですがなにか』でちゃっかりドラマ化されている)。

 「世代間の思考停止を招く呪いの言葉」という言葉で思い出すのは、山田太一脚本による『ふぞろいの林檎たち』シリーズ(1983~97年/TBS)だ。リアリティのある青春ドラマの名作だが、主人公の若者たちは、『ゆとり―』のまりぶが入ったような三流大学を出て、就職に苦労し、今ならブラック企業認定間違い無しの会社でハードな営業をやらされていた。主人公を演じた中井貴一の生年(1961年)で考えれば、彼らは「新人類」と呼ばれた世代。今は部長以上の立場になり、ゆとり世代をディスるこの世代も、かつては「これだから新人類は」と言われていたのだ。呪いの言葉は時を超えてめぐりめぐる。ちなみに、『ゆとり―』で正和の元上司・早川を演じる手塚とおるも1962年生まれでその世代に該当する。

 話が脱線してしまうが、『ふぞろいの林檎たち』=「新人類」と、『ゆとりですがなにか』=「ゆとり世代」の間には、「バブル入社組」がいて(一部、新人類とかぶる)、そちらも大量採用された当たり外れの大きい世代としてディスられがち。懐かしのトレンディドラマのほか、池井戸潤の小説をドラマ化した『連続ドラマW アキラとあきら』(7月9日スタート/WOWOW)で描かれるので、見比べてみるのも面白いかもしれない。

 さて、連続ドラマ版で世代の呪いから解き放たれたはずの“ゆとり”たち。今回のスペシャルドラマでは、彼らが自信を持って人生を歩んでいるのかと思いきや、そうはいかないようだ。人間はそう簡単に成長しないし、変わらない。それもまた、宮藤官九郎作品らしい描き方と言える。山路が今度こそ童貞を卒業できるかと思いきや、できない。というようなノリで長く続けてほしいシリーズだ。

小田慶子