ここから本文です

不世出のアンダースロー左腕・永射保が語っていた「左殺し」の誇り

7/5(水) 8:00配信

webスポルティーバ

 1970年代に流行った『野球狂の詩』(講談社/作者:水島新司)という漫画があった。弱小チームである東京メッツを舞台にしたプロ野球の話で、物語の後半に登場し主役となったのが水原勇気だ。初の女子プロ野球選手、さらに魔球を持つ左のアンダースローという斬新な設定もあり、大きな話題となった。

■追悼・森慎二コーチ。4月に語っていた「腕がとれた!」悪夢

 その“水原誕生”のヒントとなったのが、先日63歳で急逝した永射保(ながい・たもつ)氏だった。以前、永射氏からこんな話を聞いたことがあった。

「水島先生が数日、密着したことがあったね。最終的に『男じゃつまらん』ということで女性投手となったみたいですけど、僕のフォームとかいろいろ見ていかれました」

 また、1978年にピンク・レディーが歌い大ヒットした『サウスポー』という曲があったが、そこに登場する左投手のモデルとなったのも永射氏だったという。

「だからオフに、ピンク・レディーのふたりと舞台に並んで『サウスポー』を歌ったんですよ」

 水島新司と阿久悠――漫画界と歌謡界のヒットメーカーふたりのアンテナに引っ掛かったというだけでも、当時の永射氏がいかに特別な投手であったかがわかる。

 70年代半ばから約10年。永射氏は、パ・リーグの並み居る左のスラッガーたちを腰砕けにし、そのバットに空を切らせた。まさに“一殺”の「左殺し」として球史にその名を刻んだ。

 永射氏の訃報を伝えるニュースを目にし、脳裏に浮かんだのは、左のアンダースローという空想的な投球フォームと、以前、北九州で永射氏が経営していた居酒屋「野球狂の詩」とスナック「サウスポー」をはしごしながら語ってくれた熱い言葉だった。

 鹿児島の指宿(いぶすき)商時代の永射氏は、勢いのある真っすぐとブレーキの効いたカーブが持ち味のオーバーハンドの投手だった。1971年のドラフトで広島から3位指名を受け入団。身長が170センチちょっとしかなかったことと、当時巨人の王貞治の対策に頭を悩ませていた首脳陣の指示で、1年目のオフに早くも腕を下げた。

 1974年に太平洋(現・西武)に移籍してからフォームが固まり始め、腕はさらに下がっていった。

「どうせやるならもっと下げてやろう。左のアンダースローは野球界のタブーみたいになっていたけど、『タブーは破るもの!』と思っていましたから……」

 しかし腕を下げていくと、見本になる投手が見当たらなくなってしまった。そこで参考にしたのが、阪急(現・オリックス)の大エース・山田久志だ。

「腰の使い方、腕の出し方、ボールを離すタイミング……山田さんのフォームを見て、徹底的に考えました。なかでも、ボールを長く持つにはどうしたらいいのか。球離れが早いと、抜け球が多くなって、コントロールも安定しないし、キレも出ない。そこを徹底的に追求しました」

 そして永射氏の出した答えが下半身の強さだった。

「山田さんのフォームは、さすが理にかなっていた。あのボールのキレもコントロールも、下半身の強さがあったからなんです。山田さんの足腰の強さはピカイチですから」

1/3ページ

記事提供社からのご案内(外部サイト)

Sportiva

集英社

Sportivaムック
10月5日(木)発売

定価 本体1,593円+税

フィギュア特集
『羽生結弦 いざ決戦のシーズン』
■オータムクラシック2017
■宇野昌磨、本田真凜ほか