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平清盛が延暦寺に対してビックリするほど宥和的だった理由

7/6(木) 12:00配信

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平安末期の武家を代表する名門であった源氏と平氏は、時に争いながらも、武士の地位を高めていった。彼らはどのように生まれ、いかにその地位を築いたのか。源氏の名を天下に知らしめた風雲児・八幡太郎義家、平氏の世を準備した正盛・忠盛と、全盛期を築いた清盛。源氏・平氏一族の歴史をひもとき、そのルーツを探る! 

若き日の延暦寺との諍いと、武士で初めての公卿身分への到達

 永暦元年(1160)に清盛は、鎮西の海賊である日向通良の追討使に任じられ、見事にその役目を果たし、忠盛の後継者としての面目を全うする。ただし、海賊の追討を直接行なったのは清盛の郎等である平家貞であり、清盛が西国に出向いたわけではない。西国での海賊退治における清盛自身の活躍ぶりを示す史料は、残念ながら伝わっていない。

 また清盛は、保元3年(1158)に大宰大弐(九州を統括する大宰府の受領の地位に相当)に任じられる。大宰府の実質的な指揮権限を手にした清盛は、大宰府の役人を平氏家人とする手法によって、父以上に積極的な対外交易の推進に乗り出していくのである。

 ところで、忠盛が健在だった時期の清盛の動きとして注目されるものに、久安3年(1147)に起きた、いわゆる祇園社闘乱事件というものがある。
 事件の発端は、6月の祇園社御霊会における清盛の従者と祇園社の神人とのいさかいであった

 その中で従者の放った矢が祇園社の建物にあたったことから事態は紛糾し、祇園社を末社とする延暦寺が清盛の処罰を鳥羽上皇に訴え、強訴の動きを見せた。

 忠盛自身は、事件の早期収束をはかるべく、当事者の身柄の鳥羽上皇への引き渡しと清盛の処罰を容認する姿勢を見せ、最終的に穏便な解決がなされたものの、一時は京中で有力武士と延暦寺衆徒の全面衝突が勃発する寸前にまで事態は緊迫したのである。

 明確な史料はないが、清盛がこの事件から、延暦寺のような有力寺院との関係を良好に保つことの重要さと難しさを学んだ可能性がある。その後の清盛が延暦寺に対して、意外に思えるほど宥和的なスタンスをとり続けた背景は、この若き日の経験に求められるのではないか。

 清盛は、祖父・父と同様に四位への昇進を果たす。そして、平治の乱で源義朝を倒し、後白河上皇および二条天皇の窮地を救ったことの賞として三位に昇り、清盛の父祖だけでなく、それまでに武士の誰もがなしとげられなかった公卿身分への到達を果たすことになるのである。

文/上杉 和彦

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