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長いドレッドヘアを切って「イタリアン・シェフ」の道へ

7/6(木) 11:00配信

SmartFLASH

 音楽から料理の世界へ。修業の末にシェフ&店主となった男が会得した、客を呼ぶ料理の心とは!?



 東京・市ヶ谷の堀に沿った大通りから一本裏の通りの、さらに路地に入った突き当たりに一軒家の「燕食堂」はある。近所に住む人以外は地図を頼りに行くしかない、隠れ家のようなレストランだ。

 2階建てで68席あるから、けっこう大きい。昼は近くのサラリーマンやOLの社員食堂のように使われており、5種類の定食を出す。夜はガラリと雰囲気が変わってビストロになる。料理のベースはイタリアン。楢原啓太さん(42)はこの店のシェフであり、店主である。長身、ハスキーでシャウトが似合いそうな、鍛え上げた大きな声をしている。

「20代は音楽に明け暮れていた。バンドを組んでロックやレゲエとか、けっこうヘビーなものもやっていた。長いドレッドヘアでね。ギターを弾きながらボーカルというのがメインで、ベースやドラムもやった。あくが強くて人間関係でもわがままで、メンバーがしょっちゅう変わって、そういう部分でも音楽で自分を表現していくことに疲れてしまった」

 20代後半でプロになるかならないか煮詰まった結果、楢原さんは音楽から料理に人生を切り替えた。子供のころから料理は好きだった。母親が料理好きで、誕生日とかクリスマスに手のこんだ料理を作ってくれた。研究熱心だった母親の影響があったのかもしれない。長いドレッドヘアを切り、ツルツルに頭を丸めて料理界に飛び込んだ。迷わず選んだのはイタリアンだった。

「僕は広島出身で、20歳前につき合っていた彼女と、当時地元でいちばん流行っていたイタリアンの店に行った。衝撃的だった。ようやくイタリアンがほかの洋食と区別され始めたころだ。カッコいいやつは皆イタリアンへ、みたいな。フレンチみたいにかしこまっていなくて、味はもとより、そのスタイルに惹かれて、こんな世界があるんだと思った記憶が残っている」

 料理人としてのキャリアが始まってから、面白さがわかって深みにはまっていった。イタリアン、和食、インド料理など転々とした。イタリアンバーのシェフ時代にイタリア人の友人ができ、一緒に料理を作ったりすることでイタリア料理にさらに傾倒。しかしバーのシェフでは先が見えない。高級フレンチやクラシックなイタリア料理店で働いた。

 34歳のとき、楢原さんは料理人としての最初の転機を迎えた。「燕食堂」の前身である「燕スタジオ」に料理人として入ったのである。2階がヨガのスタジオで、1階がカフエレストランになっていた。やがて、ここでプロデューサーとしての才能が開花することになる。

「僕が入ってから3年ぐらいは、上のスタジオの生徒さんやインストラクター向けの、わりと健康色の強い料理にコンセプトを置いてやっていた。僕自身はそういう観点で料理をしたことはなくて、それ自体はすごく勉強になった」

 しかし、レストランの維持は難しかった。夜の客が来なければ利益は出ない。危機が迫っていた。そんなとき、前任者が辞め、楢原さんが後を引き継ぐことになった。38歳のときだ。楢原さんはレストランを立て直し、スタジオもレストランにすることを考えた。そのためにまず地域性に着目し、地域の人が何を求めているのか、真摯に耳を傾けた。ヒットすればその世界を強調して、そこへシフトしていくようにした。

「お客様の価値観こそいちばんという意識で、お客様の声を聞きながら料理を作り始めると、面白いくらいお客様が来てくれるようになった」

 満席を維持できるようになり、スタジオのクローズが現実味を帯びた。

 運命の歯車がいい方向に回りだす。隣に建築家が越して来て、店に来るようになったのもそのひとつだ。スタジオのリニューアルを相談した。親会社に計画書を提出し、承諾を得てあっという間に話がまとまった。自信はあった。準備に約1年、工事に2カ月。2016年3月に店は「燕食堂」としてリニューアルオープンした。41歳で迎えた新たな転機である。

「うちのコンセプトでいちばん自慢できるのはひとつの輪。野菜、チーズ、ジビエは仲間や知り合いから取り寄せ、皿は工芸家の友人に作ってもらっている。シャルキュトリ(生ハム、パテ、ソーセージなどの、おもに豚肉の加工食品)は常時10種類以上揃えているが、すべて僕の手作り。パンも酵母から作っている。そして、その輪の中心にお客様がいる」

 10代や20代のときに描いていた唯我独尊の世界とは真逆の世界。そこにこそ真の人間の喜びがあると楢原さんは言う。一人では何もできない。俺が、俺が、ではなく、今は店に関係するすべての人とのセッションを楽しんでいる。
(週刊FLASH 2017年7月11日号)

最終更新:7/6(木) 11:00
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