ここから本文です

映画について書く・語るという行為は新たな時代に突入しているーー『映画評論・入門!』モルモット吉田インタビュー

7/7(金) 20:10配信

リアルサウンド

 映画評論とは何か? それはなくてはならないものなのか? 気鋭の映画評論家・モルモット吉田氏の初の単著『映画評論・入門! 観る、読む、書く』が洋泉社より発売中だ。同書では、評論を巡る論争・事件の歴史から、“名作“”の公開当時の批評分析まで、徹底した調査と巧みな整理によって、映画の魅力、映画評論の面白さが紐解かれている。

 このたび、リアルサウンド映画部では著者モルモット吉田氏にインタビューを行った。本書構成の背景から、自身に影響を与えた映画評論家の存在、そしてこれからの映画評論の在り方について、たっぷりと語ってもらった。(編集部)

■新しい批評の熱気

――『七人の侍』や『ゴジラ』など、現在“名作”と位置付けられている作品も、公開時は批評家や新聞記者を通して非常に活発な議論が行われていたことが本書を読むとよく分かります。こうした批評の熱気は、今の時代にも引き継がれているのか、もしくは断絶しているのか、どう考えていますか。

モルモット吉田(以下、吉田):本書で一部引用した評も、現在の視点から読むと、的が外れている、ちゃんと観ていないと感じるものもあります。もちろん、現在のようにDVDも無ければ、何度も観て書かれていないこともあって、今だとネットで突っ込まれそうな勘違いをしたまま書いた、いいかげんな批評もかなりあります(笑)。それでも、宣伝会社によるネタバレ防止の度が過ぎた制限もなく、評論家・新聞記者の批評に自由を感じる部分はありますね。それも映画が国民の娯楽の王座にあった時代ならではの活気があったからでしょう。それでも、『七人の侍』『ゴジラ』に寄せられたような自由に賛否を飛び交わせた批評が今も出てきてもいいと思います。

 去年の『シン・ゴジラ』や『君の名は。』、一昨年の『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のように、観客がその作品について書きたい、語りたいと思わせる熱気を帯びた作品がSNSなどで拡散する状況を見ていると、紙媒体でプロを名乗る映画評論家や映画ライターなど不要で、観客同士が繋がっていくことで映画の魅力が発見されていくのを実感します。その熱気は本書で取り上げた1950~70年代にかけての映画論争の熱気とも近しいものがあるかもしれません。そういう意味では、映画について書く・語るという行為は新たな時代に突入していると感じます。

――過去と現在、何がもっとも違う点でしょうか。

吉田:昔は、観客たちがまだ観られない作品を先に試写で観た評論家が、その中から観るべきものを読者に伝えるという、はっきりした上下関係があったと思います。映画館の環境も良くなかったので、イマジカの試写室じゃないと観たうちに入らないとか自慢する人もいましたからね(笑)。

 でも、今は映画祭や海外盤のブルーレイを取り寄せたりすれば、評論家よりも早く観ている人はザラにいます。そういう人の方が情報も早くて詳しい。それに、評論家が試写室で公開前に観ていると言っても、スクリーンは小さいし、古い試写室だと音響が悪い。同じ映画を音響設備のしっかりしたシネコンやミニシアターで観ると、とても同じ映画に思えないことがあります。今の作り手は音響に関しても細かく演出していますから、試写だとそこを聴き落としている可能性もあるわけです。その意味では、公開初日に環境の整った劇場で観る観客が、最も早く作り手の意図した状態で観ることができるんです。それから映画雑誌でも特集記事を除けば批評が掲載されるのは公開後が多いので、初日に観た観客がFilmarks(フィルマークス)のような短評レビューアプリや、ブログなどで感想を書く方が、読者はいち早く、率直な感想を知ることができるので、今は観客によって映画が書かれ、読まれる時代です。実際、ネットのレビューを読むと映画雑誌に載っているものより遥かに面白い文章を書く人がいます。また、もう少し基本的な事実関係を押さえて書けばもっと良くなると感じる人もFilmarksなどにたくさんいます。かつては映画雑誌の読者欄からプロになる人がいましたが、今後はネットからそうした人が多く登場することになると思います。

――吉田さん自身は最初、ブログから批評を発表されましたね。

吉田:元々は小学生の頃から書いていた映画の感想ノートをブログに移行して書いていただけです。特に誰に読んでもらうつもりもなく、自分が後で読めるように書いていたんです。10年前、松江哲明監督の新作公開に合わせて特集上映が行われることになり、解説文の一部を依頼されたのが紙媒体で最初に書くきっかけです。その直後に市川崑監督が亡くなって、『映画秘宝』で追悼特集をやるので、「20代の市川崑ファン」として依頼されたのが商業誌で書いた最初です。松江監督や市川監督についてブログによく感想を書いていたので、それがたまたま目に留まったんでしょう。後に商業誌へアピールするために市川崑と松江哲明を選んで集中的に観ていたのかと訊かれたことがありましたが、本当に好きじゃなかったら、マイナーな作品が上映されるのを聞きつけて遠方まで観に行く気力はわかないと思います(笑)。

 映画について書くなら、自分の偏愛するジャンルや得意分野を持っておくと良いと思います。今は偏らずにバランス良く話題作について書くというタイプがネットでは多いのではないかと思いますが、どんなに小さな作品でも追いかけたいと思える監督や俳優を見つけると、その積み重ねが、他の書き手にはない個性になります。昔の『映画評論』という雑誌でも、ベテランの評論家は巨匠監督や話題作を書くのですが、若手の評論家は、当時まだ注目されていなかった鈴木清順や加藤泰を発見して書くことで頭角を現しました。今は、自主映画やNetflixなどの配信オリジナル作品をはじめ論じられていない作品は多々あるだけに、そこに埋もれた傑作を見つけ出して欲しいですね。

■蓮實重彦、町山智浩、淀川長治の存在

――そんな誰もが評論家になりうる時代に、初の単著として刊行されたのが、『映画評論・入門!』と題した本書です。自らの批評軸に沿って、ちゃんとものを言う評論家を再発見すること、あるいは、今の時代に批評とは何かを喚起したいといった意図があったのでしょうか。

吉田:たとえば、町山智浩さんや、ライムスター宇多丸さんの映画評論なら読む、聴くという人は多いと思います。1本の映画に向き合う丁寧さでも、このおふたりは突出しています。一方で、ほかの人の評論には最初から目を向けないという方もいるようです。確かに、名前を挙げたおふたりは、語り手としても書き手としても一流です。でも、だからといって特定の評論家だけを盲信してしまうのは映画を知る上でもったいない。1本の映画に寄せられる複眼の視点、それこそ見当違いの意見でも、無名の人が書いた批評でも横つなぎで見ていくことが映画評論の楽しみ方でもあるんです。本書は引用が多い書籍になりましたが、書き手それぞれの文体の癖を少しは感じてもらって、そうした面白さを再現したつもりです。

――タイトルから察するに、もともとは映画評論のハウツー本にする予定もあったのですか?

吉田:最初に『別冊映画秘宝』編集長の田野辺さんから本書についてのお話をいただいたとき、映画評論のハウツー本なのであれば自分には難しいなと思いました。すでにそういった書籍も出ていますし、読者対象も狭いものになってしまう。むしろ、評論を書くことに興味がない方も読んで楽しめるという意味での〈入門!〉になればと考えました。最初は映画評論の歴史を追っていきながら、戦前・戦中・戦後の映画評論、それから蓮實重彦さんの存在や、アンチ蓮實的な考え、町山さん登場以降の『映画秘宝』の存在も含めて、日本の映画評論のフォーマットを追っていく形も考えたのですが、レジュメを作るとそれだけで1冊の本が出来上がるほどの内容に膨れてしまったんです。やはり、映画評論を書くことに興味はないけれども、読むことはあるという方に届くものにしたかったので、映画に詳しくない人が読んでも楽しめるように「北野武 VS 桑田佳祐」「『東京オリンピック』と高峰秀子」といった事例を選んで、そこで絡んでくる問題が、過去が現在を照射するような構成したつもりです。

――現在の映画評論においても、蓮實重彦的か、それともアンチ蓮實かというのはひとつの軸として、今なお影響が残っていると感じることがあります。しかし吉田さんの記事は、どちらにも属していないというか、両方の特性を持っているような印象が強い。

吉田:大学生になったころ、蓮實さんの『映画の神話学』を最初に読みました。でも、この人を読み続けると影響を受けすぎるだろうなとすぐに感じました。もう少し映画を観て、自分にとっての映画の観方が確立されてから読もうと。だから、蓮實さんの本をちゃんと読むようになったのは25歳以降でしょうか。蓮實さんは「画面の中しか読まない」と思われていますが、実は映画雑誌『リュミエール』誌の編集をされている頃からは映画史的な背景を踏まえた上での評論もされている。70年代にB級映画やプログラムピクチャーを積極的に評価されていた頃のものも好きです。

 たとえば、蓮實さんとおすぎさんは、同じ映画評論家で淀川長治さんの寵愛を受けた存在ですが、並べて語られることはない。確かに評論の書き方も映画の観方も対照的だと感じます。でも、ふたりに共通するのは映画評論を通じて映画館に客を呼び込むことなんですね。良い映画があれば、とにかく言葉を尽くして観客を呼び込もうとする。おふたりとも、映画評論家としての自身を〈劇場勧誘員〉だとか〈呼び込み屋〉と言っていましたが、そうした姿勢が共通することもあって、文章には観客予備軍の読者を動かそうとする力がありました。そういう点で蓮實さんの本も、おすぎさんの本も僕はどちらも好きでした。だからひとりからしか影響を受けないと同じような評論になりがちですが、それぞれの評論家の好きな部分だけを、いいとこ取りで自分の書くものに反映させたらいいと思います。蓮實さんのように画面を読みつつ、町山さんのように映画の背景も読み込んで、淀川長治さんのように美的感覚を盛り込んでも良い。

――名前が挙がった淀川長治さんの存在も、本書の中で大きなカギになっています。テレビにも出て、大衆にも受け入れられつつも、映画批評家としても鋭い部分を持っていた。

吉田:僕が映画に魅了されたきっかけとして、淀川さんの語りの力は大きかったように思います。3、4歳の頃だったと思うんですが、『日曜洋画劇場』の後説で最後の「サヨナラサヨナラ」のフレーズが聞きたくて、ついでに放送される映画を観ていましたから。淀川さんは語りのイメージが強いこともあり、晩年の美文調の言文一致体になってからの方が、書かれるものは面白いと思います。若い頃に書かれた評論を読むと、オーソドックスな文体ですし、宣伝会社出身の評論家として映画ジャーナリズムでの扱いは、そこまで上ではありません。逆に言うと、標準的な評論も書けて、TVで親しまれるようになった独特の感覚的な話術が文章に盛り込まれるようになってから、淀川長治の映画評論家としての魅力が花開いたと思います。その点で、町山さんや宇多丸さんは非常に明晰な言葉で喋られて、大衆性も持ち合わせている。優れた語り手であると同時に、書き手でもあるので、かつての淀川さんに最も近い存在とは言えると思います。

――本書の中で印象的だったのは、晩年の淀川さんの文章に対して批判もあったという点です。

吉田:神格化されてしまった晩年の淀川さんに対して、批判的な文章を書いたのは大阪の大学教授・重政隆文さんだけでした。90年代初頭は月に1冊出ているんじゃないかと思うぐらいのペースで淀川さんの本が次々出ていたのですが、語り下ろしで、同じような内容の人生訓的な本が多く、淀川さんの記憶に頼り切ってウラを取っていないような本もありました。淀川さんと共著を出した山田宏一さんや蓮實さんが方向付けをした『映画千夜一夜』みたいな本だと、ふたりが淀川さんの記憶を刺激して他では語ったことがない話を思い出させたりして、面白い話が出てくるんですが。その意味では、淀川さんの本は活かすも殺すも編集者の力が問われるところです。山田さんは淀川さんに怒鳴られるぐらい、何回も確認の手紙を送ったという逸話が残されています。淀川さんの没後に出た『映画は語る』は、『映画千夜一夜』ではもう観られない昔の映画を淀川さんの独壇場で語っていたのが、その後、ビデオで色々観られるようになったので、山田さんがもう一回淀川さんに聞き直すという復讐戦的な面白があります。これだけしつこい人が関係すると、当然、本も面白くなりますね。筈見恒夫さんが編者を務めた『淀川長治集成』も、内容的にもちゃんと校正が入ったとても面白い本なので、古本で探していただきたいですね。

 淀川さんと言えば、毎年のベストテンに挙げている作品を眺めると、若い頃は、それほど特徴はないのですが、後年はかなり独特な作品を並べているのも面白いですね。どうもベストテンというと、今でも全体の顔色をうかがうようなところがありますが、淀川さんは誰の目も気にしないで自分が本当に良いと思った作品を挙げています。その点では、北野武監督を『あの夏、いちばん静かな海。』でいち早く絶賛し、失敗作とも言われた『みんな~やってるか!』も独特の美的感覚で支持していました。映画解説の印象から、淀川さんは映画への悪口を言わないと思われがちですが、映画評論家としては非常に厳しい人でしたね。TVや一般誌ではそういう素振りは見せませんでしたが、映画専門誌では厳しい批判をする時もありました。亡くなって20年経った今も一面的な部分のみで淀川さんが語られるのは疑問です。『映画千夜一夜』や『淀川長治集成』に続くような本で、改めて映画評論家としての淀川長治を文字の上で蘇らせたい存在ですね。

■幻の映画評論家・増田貴光

――本書に登場する評論家で言うと、北野武さんとやりあっていた田山力哉さんの存在も大きいですね。

吉田:キネマ旬報で連載されていた田山さんのコラムは、毒舌の度が過ぎていて面白かったですね。もっとも肝心の批評は、若い頃に比べるとイージーになっていたようにも思いますが、北野監督やおすぎさんを正面から批判する田山さんのような存在は、現在はいませんね。

――なぜ現代だと存在しないのでしょうか。

吉田:映画ライターのハウツー本を読むと、「映画ライターは宣伝チームのひとりです」と書いてあるものもありましたが、今、映画評論はネットで充分なのかも知れませんね。紙媒体で映画について書くのは紹介、取材だけで良いと、みんな思っているんじゃないでしょうか。

――宣伝ライターと評論家の境目が曖昧になっているなかで、作品のネタバレについての考え方も、評論の歴史の中で変わってきていますか。

吉田:ネタバレは昔の方が酷かったんですよ。淀川さんも『映画の友』の友の会で読者を集めて公開前の映画を次々喋っていたそうですが、『いとこ同士』も公開前にラストまでバラしたらしい(笑)。昔の映画評論を読むと、ネタバレがすごいですよ。それでも書き手によって気を遣って書くタイプと、無神経にネタバレを書くタイプが昔からいます。映画を楽しむ上で、ある程度のネタバレ防止は必要だと思うのですが、今はその範囲が広がりすぎていると思いますね。結末まで書くのは論外としても、基本的な設定や、起承転結の起の説明すらもネタバレと言われると、観て書く必要なんてないなと思います。マスコミ試写でも誓約書を書かされて、幾つもの項目にわたって公開前に書いてはいけないことが記されているのを目にすると、さっき言ったように初日に劇場で観てネットに感想を書くことが、いかに良い環境で自由に書けるかを改めて実感しますね。

――本書の中で主役とも言える存在感を放っているのが、映画評論家・増田貴光です。

吉田:淀川長治の弟子と呼ばれ、現在の映画系タレントの元祖とも言える存在です。『土曜映画劇場』の映画解説者やタレントとしても一時期は非常に人気がありました。彼の名前自体は知っていたんですが、僕が生まれた時にはもう映画評論もタレント活動もされていませんでした。増田さんを知っている方に話を聞いても、本に書くような価値はないと言われてしまうのですが、数年間ながら映画評論家のみならずテレビの人気司会者でもあり、レコードも出すマルチ活動ぶりから一転して奇妙な形で芸能界から姿を消し、その後も“現実離れした”映画みたいな犯罪をおかしてしまう。彼一人だけでノンフィクション本が作ることができるぐらい興味深い存在だったので、この機会に書きたいと思ったんです。

■これからの批評に求められるもの

――「第3章 映画監督VS映画評論家」では、市川崑監督が批評とは何かを提示した大変読み応えのある論争が行われています。雑誌『映画芸術』は、編集長である荒井晴彦も脚本家・映画監督であり、作り手が書き手となっていますが、このあたりをどう感じますか。

吉田:リアルサウンド映画部にも連載されている松江監督もそうですが、作り手の方たちのほうが評論家・ライターよりもはるかに映画を観ていることがある。一昔前には、大島渚監督が自身でも映画を撮り続けながら鋭い評論を発表していました。作り手からの発信も、どんどん活性化していけばいいと思います。SNSで評論への反論や陰口を言うのではなく、堂々と反論して作り手側との議論が活性化すると、良い緊張感が生まれると思います。

――松田政男さんが提唱した「批評の党派性」についての言及も本書にあります。政治思想的であったり、作家ありきで批評の方向性を決めることこそが、批評の活性化に繋がるというものですが、これを改めて吉田さんはどう考えていますか。

吉田:松田さんの言われる党派性が今も継続できるとは思いませんが、この監督、この俳優と見定めたら、作品の規模を問わず付き合い続ける姿勢は必要だと思います。例えば古澤健監督や、瀬々敬久監督などは、東宝でメジャー映画も作れば、その10分の1程度の予算でインディーズ映画も撮られている。評論で取り上げられるのは作家性の強いインディーズ作品の方になりがちですが、メジャーで撮ったものも職人技術の提供だけではないはずです。実際、古澤監督のラブコメは、監督がかなり乗って撮っているのが伝わるほど、凝った演出があります。それらを読み解いていくのも映画批評の必要性でしょう。また今は映画だけに限らず、TV、配信など様々な形態で撮られる作品に作り手は果敢に挑んでいますから、書き手がそこに併走できていないことが多いと自戒を込めて思いますね。

(取材・構成=編集部)

最終更新:7/7(金) 20:10
リアルサウンド