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インドの理不尽な裁判を舞台に社会の分断を描く『裁き』 - 大場正明 映画の境界線

7/7(金) 16:00配信

ニューズウィーク日本版

<自殺を扇動する歌を歌ったという不条理な容疑で逮捕された民謡歌手と、裁判官、検事、弁護士の私生活から、インド社会の分断が浮かび上がる>

インドの新鋭チャイタニヤ・タームハネー監督の『裁き』は、ヴェネチア国際映画祭でルイジ・デ・ラウレンティス賞(新人監督賞)と先鋭的・革新的な映画を発掘するオリゾンティ部門の作品賞のW受賞を果たした。原題の"COURT"が示唆するように、法廷を中心に展開するこの映画は、まさにそんな賞に相応しい作品といえる。

容疑者に仕立て上げるための裁判

映画の舞台となるムンバイの下級裁判所で裁かれることになる被告は、65歳の民謡歌手ナーラーヤン・カンブレ。彼は、下水掃除人を自殺へと駆り立てた自殺幇助の罪で起訴される。彼はスラムで行なわれた公演で、下水掃除人は自殺すべきだという扇動的な歌を歌い、その2日後にスラムに暮らすパワルという下水掃除人が下水道で自殺したというのだ。

それはなんとも不条理な容疑だが、映画の導入部を見れば、これがどのような裁判であるのかが察せられるだろう。カンブレがスラムで行われている抗議集会に現れ、舞台で歌いだす。その歌には以下のような歌詞が含まれている。

「立て、反乱のときはきた、困難な時代だ、土地を追われる、無知の時代だ、目を開け、敵は全てを滅ぼす、己の敵を知るときだ、宗教の森、カースト差別の森、人種差別の森、民族主義者の森、詐欺とニセモノ、巨大なモール」

しかし、彼が歌い終える前に警官たちが現れ、舞台は中断する。そんなエピソードから、ここで描かれるのが、当局から危険人物としてマークされた人間を、容疑者に仕立て上げるための裁判であることがわかる。

そこで、一般的な法廷劇であれば、検察官と弁護士の攻防が見所になるはずだが、タームハネー監督の関心は別のところにある。それは伏線によって示唆されている。

裁判が始まる前に、弁護士のヴィナイ・ヴォーラーは、「ムンバイ報道協会」で開かれた会合で壇上に立ち、人権に関する報告を行う。それは、爆破事件の容疑で逮捕された被告の事例で、無罪を証明するたびに別件での再逮捕が繰り返され、裁判が長引いていく実態が明らかにされる。このエピソードは、明らかにカンブレの裁判の行方を予示している。

下層カーストの下水清掃人の過酷な現実

では、タームハネー監督は裁判を通して、なにを掘り下げようとしているのか。注目したいのは、このようなやりとりだ。下水道で窒息死していた掃除人は、なぜ自殺と断定されたのか。女性検察官は、故人が安全装備をなにも身につけていなかったからだと説明する。経験者は下水道で発生するガスの危険性を熟知しているため、装備なしに入ることはないというのだ。これに対して弁護士は、故人の妻から、夫が普段から安全装備なしで清掃作業をしていたという証言を引き出す。

そんなやりとりの背後には、重い現実がある。タームハネー監督は、反カーストの立場からカーストの問題に取り組むジャーナリスト、S・アナンドが、下水清掃人の過酷な環境について書いた記事にインスパイアされて、この設定を盛り込んだ。

下水道の清掃は下層のカーストが担ってきたが、アナンドは記事のなかで、2007年の時点で、インド全土で毎年少なくとも22327人の男女が公衆衛生に関わる仕事で命を落としていたとか、マンホールで毎日少なくとも2、3人の労働者が死亡していたという数字や関係者の証言を取り上げている。また、2013年には危険な手作業による清掃を禁じる法的措置がとられたものの、建前にとどまっているという。

この裁判では、そんな基本的人権に関わる人間の死が、危険人物としてマークする人物を容疑者に仕立て上げるために利用され、下水清掃人の過酷な現実の一端が明らかにされても、なんら関心が払われることはない。



さらに、カンブレのキャラクターにも現実が反映されている。タームハネー監督は、容疑者に仕立て上げられた実在の人物ジッテン・マランディにインスパイアされたという。マランディは、左派勢力のシンパとして音楽や演劇、討論などを通して、弱者を搾取する大規模な開発などに抵抗してきたが、危険人物とみなされるようになり、19人の人々が虐殺された事件の容疑者10人のひとりとして逮捕された。その後、裁判が繰り返され、解放されるまでに6年かかったという。

分断された二つの世界

そしてこの映画にはもうひとつ、際立った特徴がある。それは、裁判と並行して、女性検察官、弁護士、判事の私生活も描き出されるということだ。たとえば、女性検察官は、妻や母親として伝統的で、どちらかといえばつつましい生活を送っている。これに対して、人権派の弁護士は、車で聴いているジャズやスーパーで購入する食品類など、かなり西欧化された生活を送り、実家も裕福に見える。

タームハネー監督は、法廷を中心としたドラマのなかで、カンブレや死亡した下水清掃人とその妻が生きる世界と、検察官や弁護士、判事が生きる世界を巧妙に対置している。そんなふたつの世界は、明らかに分断されている。

この映画には、逮捕前と保釈後とカンブレが2度、舞台に立つ場面があるが、彼のパフォーマンスは、病気を抱えているとは思えないほど生気に満ち溢れている。しかし、法廷では別人のように寡黙になり、感情を表に出すことがない。また、弁護士に信頼を寄せているようにも見えない。カンブレにしてみれば、検察官も弁護士も揺るぎないシステムに組み込まれた歯車であり、不毛なゲームを繰り広げているだけなのだろう。

まともな教育が受けられない貧しい子供たち

そんな分断された世界を踏まえて、この映画の冒頭を振り返ってみると、最初に描かれるエピソードが非常に興味深く思えてくる。カンブレは狭い部屋に子供たちを集め、勉強を教えている。おそらく彼らは、まともな教育が受けられない貧しい子供たちなのだろう。ちなみに、カンブレのモデルになったマランディも、子供の頃に勉強がしたかったが、貧しくて学校に通えなかったと語っている。

そこで思い出されるのが、ノーベル経済学賞を受賞したインド出身の経済学者アマルティア・センとジャン・ドレーズの共著『開発なき成長の限界――現代インドの貧困・格差・社会的分断――』のことだ。本書には、教育と社会的分断に関して以下のように書かれている。

「インドでは極端なまでの階層化が教育の分野で容認されるようになってきているが、これはあまりにも正義に反しているだけでなく、躍動的な経済と進歩的な社会の土台を築き上げていくうえできわめて非効率的でもある。貧困、カーストによる分断、階級の壁、ジェンダー間の不平等、民族や社会集団に関連する社会的格差などによって押さえつけられている圧倒的多数のインド人をないがしろにしながら、一部の人たちだけが教育の恩恵を受けている。効率性と公平性を一緒に考えてみるという構造的な視点を持てばこそ、教育をめぐるこうした現状によって、インドがどのように(そして、どれだけ多くの)代償を支払っているかが最もよくわかるのである」

《参照/引用文献》
・Deaths in the drains by S. Anand | Opinion | The Hindu
・Fight for what's left: The story of Jiten Marandi, the Jharkhand activist by Dipti Nagpaul | The Indian Express
・『開発なき成長の限界――原題インドの貧困・格差・社会分断――』アマルティア・セン/ジャン・ドレーズ 湊一樹訳(明石書店、2015年)

大場正明

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