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エースがハサミでネクタイをちょん切った夜――フミ斎藤のプロレス読本#040【全日本ガイジン編エピソード9】

7/7(金) 8:50配信

週刊SPA!

 199X年

 ジョニー・エースは、“ジョン”が大きなハサミを取り出して、首に巻いたままのネクタイをジョキジョキとちょん切ってしまった夜のことを決して忘れない。

 ネクタイだけではなかった。「よく見ておいてくれよ、しっかり見ててくれよ」と奥さんのジルさんに念を押してから、ジョンは着ていたネイビブルーのスーツの袖を勢いよく肩口からひきちぎった。

 それから、どかどかと大股でバスルームまで歩いていくと、鏡に写った自分のこっけいな姿をながめながら「ぼくはプロレスラーになる!」と叫んで、豪快に「ガッハッハ」と笑った。

 ジルさんは、ジョンがそんな笑い方をするのそれまでいちども耳にしたことがなかった。ジョンの笑い声といえば、いつも「ハッハッハ」が「フッフッフ」だった。

 まさかと思って一瞬、不安になったが、ジョンの顔があまりにも晴ればれしているのをみて、なんだかジルさんまでうれしくなってしまった。

 「ジョンといっしょtogetherになってもう8年になるけれど……」とジルさんは話す。トゥゲザーとは、お付き合いをしはじめてからという意味なのだろう。結婚してからはちょうど3年で、ジルさんはまだ26歳だ。

 10代の終わりからずっとジョンといっしょにいるジルさんは、意志が強くて、ある部分は頑固で、辛抱強くて、シチュエーションによって適度の気分転換ができるタイプなのだろう。

 ふたりの結婚生活のカジをとっているのはジルさんのほうで――たいていの結婚はそうなのかもしれないけれど――ジルさんはジョンの行動にてんてこ舞いさせられているようなふりをして、じつはすべてをきっちりとコントロールしている。

 ジョンに国際的感覚のようなものを最初に植えつけたのもジルさんだった。ご両親の仕事の関係で、ジルさんは子どものころ台湾、香港、シンガポール、クアラルンプールなどアジアの国ぐにに住んでいたことがある。

 ジルさんと出逢ったころのジョンは、ハンバーガーとピザしか食べない学生だった。変えていかなくちゃいけないところは山ほどあった。

 プロレスラーになったことでジョンの性格が変わったかというと、それはあまりないけれど、いつのまにか傍若無人な感じの友だちが多くなった。ウィークデーの夜中にブライアン・ピルマンやトム・ジンクが電話もせずにいきなりやって来ることがある。たいてい、お酒類を持参してくるし、訪ねてきたときにはすでにそうとう酔っぱらっていたりする。

 会ったことも名前を聞いたこともない友だちを何人かいっしょに連れてくることもあるし、そのままカウチや床で好き勝手に雑魚寝をしていくことだってある。

 そんなとき、ジルさんはグラスと氷と水、それからかんたんな乾きモノを出してからベッドルームに引っ込んでしまうことにしている。付き合っていられないからだ。

 家に遊びに来るジョンの友だちがときとして非常識なのは、彼らがプロレスラーだからだ、とは考えたくない。ふつうの仕事をしていても無神経なことを平気でいったりやったりする人たちはいるし、ジョンを通じて知り合ったジョンの仕事仲間にはジェントルマンもたくさんいる。

 ジルさん自身はプロレスそのものには関心がないし、試合会場にもあまり足を運んだことがない。

 ただ、ジョンをハッピーにしているサムシングとしてのプロレスには興味がある。プロレスラーになってからのジョンのほうがたしかにポジティブになった。大学を出てサラリーマンをしてたころのジョンは、背広のなかに埋まってちいさくなっていた。ブロンドの髪もいまのほうがいい色をしている。

 それでも、ジルさんは夫のことを“ジョニー”なんて絶対に呼ばない。“ジョニー・エース”は舞台に立っているときのジョンのキャラクター名だし、ジョンに“Y”をつけてジョニーなんて、なんだかお芝居のようでどうもしっくりこない。

 ジョンはジョンで、家にいるときはそれなりにわがままになったり、ふ抜けになったりする。プロレスラーは家から一歩出た瞬間からプロレスラーである。家に帰ってきてまで「ねえ、ジョニー」なんて話しかけられたら、それはそれで居心地悪いのである。(つづく)

※文中敬称略

※この連載は月~金で毎日更新されます

文/斎藤文彦 イラスト/おはつ

日刊SPA!

最終更新:7/7(金) 8:50
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