ここから本文です

思想家・西部邁大いに語る「都民ファは今の日本人によく似合っている」

7/12(水) 15:50配信

HARBOR BUSINESS Online

 中央公論新社から6月10日に発刊された『ファシスタたらんとした者』は、自伝的作品というその性格も相まって、いわば「自らの思想の核としての経験」を書き連ねてきた評論家・西部邁にとっての、集大成となる作品といえよう。

 今回、発刊を記念したインタビューを敢行するために東京某所にある事務所に伺うと、昼下がりの日差しを背景にして、椅子に深く腰掛け、紫煙をくゆらせる“ファシスタ”の姿があった。平成を代表する評論家が明晰に語り尽くしたその来し方行く末とはーー。

◆“小さなデマゴーグ”が日本人にはよく似合う

 2017年7月2日に投開票がされた東京都議選挙は、小池百合子率いる都民ファーストの会(以下、都民ファ)の圧勝に終わった。「あたらしい議会」を掲げる都民ファだが、緑地に白抜きの都民ファのイメージカラーには既視感がある。そう、小池が政界デビューを果たした日本新党のそれなのだ。

 日本新党や都民ファなど「改革政党」をめぐる“熱狂”は、平成時代に何度も繰り返されてきた光景であり、それらはほとんど何も生み出してこなかったのは周知の事実である。しかし、現代日本人といえば、そんな改革幻想に、相も変わらず酔いしれている。平成という時代を評論家として生き、ポピュリズム(人気主義)に警笛を発し続けてきた西部に、いまの日本人はどう映るのか。インタビューの冒頭でそう問いかけると、ファシスタはポツリとこう述べた。

西部邁(以下、西部):小泉純一郎さん、橋下徹さん、小池百合子さんなど、トランプ君やプーチン君と比べると、圧倒的にスケールの小さなデマゴーグが、この島国にも続出していますね。日本語でデマというと、ウソ話ですが、元々はギリシャ語のデーモス(民衆)という言葉に由来しますから。

 デマゴーグというのは、“民衆扇動家”という訳語よりも、“民衆的”とでもいったほうがしっくりくるのかもしれません。いわば、デマゴーグいうのは、その時代に生きる民衆のマジョリティを、表象しているといって構わないのです。小さなデマゴーグがよく似合う。それが、いまの日本人だということです。

 そう述べ終わると、日本の政治状況についての言葉は、もはや尽くされたようだった。そして、遠くを見つめながら一服したファシスタは、自らの生きてきた戦後70年、その人生と思想の成り立ちについて、滔々と語り出したのだった。

◆自分を試すものとしての「エッセイ」とイタリア・ファシスタの「行動主義」

 エドモンド・バークやオルテガ・イ・ガセットの系譜を継ぐ思想家として知られる西部だが、その文章には社会科学の範疇に留まらない独特のスタイルがある。保守思想への目覚めのきっかけとなった英国での体験を記した『蜃気楼の中へ』(中央公論新社)にしても、ブントでの活動を振り返った『六〇年安保―センチメンタル・ジャーニー』(文藝春秋)にしても、根本にあるのは「自分の経験をためつすがめつ解釈する」という姿勢である。

 自らの経験の解釈の先に、思想を浮かび上がらせる、本源的な意味での“エッセイスト”といってもいいかもしれない。文芸評論家の故・秋山駿氏は文科省芸術選奨の選評で、西部の取り組みを「この著者は新しい分野を創ろうとしている」と評していた。

西部:基本的な文体はエッセイしかないんだ。様々な学問分野を、自分なりに総合的につなぎ合わせて、なるべく理屈っぽくならないようにしながらも、人間や社会の全貌を浮かび上がらせる。自分の経験を織り交ぜながら、自分を試すように書いていく。エッセイという言葉には、エグザミン(試験)に由来する。エッセイを書くという行為には、「自分を試験する、試す」という面があるからね。

 今回の本のタイトルにもなったけど、俺のファッショは、必ずしも政治的なものとはいえない。ファッショには、「束ねる」という原義がある。自分の経験と理屈を、なんとか束ねたい。経済学、文化人類学、政治学、心理学といった自分の勉強してきた学問分野も束ねたい。人間関係でいっても、仲間も束ねたいし、自分も束ねたい。俺のファッショには、そんな広い意味を持っているんだ。そもそも、ラテン語のファクティオという言葉は、人間の為すことすべてをさすんだ。

西部:そうはいっても、ゴロツキも混ざっていたイタリア・ファシスタどものある種の行動主義に、好意を感じる面があるのは確かだね。イタリアの酒場でコムニスタグループと喧嘩して、じゃれあってたファシスタグループ。彼らが抱えていた、過去への茫漠としたロマンと、未来への突撃という分裂した心境を、自分も小さいときからどこか持ちあわせていたんだ。

 人間というのは、常に決断と行動の連続でしょう。そのためには、何らかの基準が必要で、それをどこに求めるかというと、冒険主義者でない限り、過去になるわけだ。でも、過去は現在とは異なるわけだから、参考になるだけで、行動しなければ分からないという部分もあるからね。

◆60年安保を生きた「アクティブ・ニヒリスト」たち

 ’58年に東京大学経済学部に入学した西部は、共産党への入党を果たす。その年の暮れには、共産党から排除されてできた左派の学生組織「共産主義者同盟」(ブント)に加盟。ブント中央の依頼を受け、「ごまかし選挙」によって東大駒場の自治会委員長に就任。全学連中央執行委員長も兼務しながら、岸信介内閣の日米安保条約改定の反対運動である「60年安保闘争」に向かっていく。

 幼少期から吃音の傾向を持っていた西部だが、’59年4月に日比谷野外音楽堂での集会で壇上に立ったときに、突如として“名アジテーター”に変貌した。批評家の柄谷行人は、’11年の東日本大震災の後の反原発デモに参加した際に、「若い時の西部の演説が好きだった」という旨の発言をしている。

西部:若い頃は、とくにそうだった。共産党にも、本を一冊も読まないで入ったんだ。イデオロギーなんか全然なかった。「自分は滅びるけども、ただひたすらアクションをおこしていく」という行動主義だろうね。右翼でもよかったんだけど、その当時の右翼はボロッチかったし、大日本愛国党の赤尾敏は「親米愛国」でしょう。こっちは小さい時から「反米」だからさ。大日本愛国党が「反米愛国」だったなら、ドスを持って、山口二矢の先駆者にでもなってたかもしれないな(笑)。

 共産主義者同盟(ブント)の一員として、60年安保をやっていたときには、共産党も含むエスタブリッシュメントに、一撃を与えてやろうという以外の原理原則はなかった。当時の俺は不思議な立ち位置にいてね。偽の委員長として、駒場に張り付いて、圧倒的に強い共産党の連中と朝から晩まで喧嘩に明け暮れてた。

 だけど、同時に、全学連の中央執行委員という肩書きもついている。何かあると、街頭に出て、ダーッと宣伝カーの上に飛び乗って、演説をぶち、警察から逃げながら、学校へ行くというね。そんな何重生活を3年間ほど、最後までやっていたら、全部が見えてくる。こりゃダメだって。

 だから、俺がやめようって決めたのは早かったわけだ。自分が持たないし、全てのデタラメが見えていたからね。安保闘争は4月、6月にかけて盛り上がったといわれるけど、我が党派は1月、3月の時点で壊滅的だった。でも、壇上ではそんなことをおくびにも出すわけにはいかないし、自分が先導者なんだから、さも情熱に駆られているように振る舞った。そいう分裂状態が長く続いた。

 そんな頃かな。唐牛(健太郎、60年安保当時の全学連委員長)と話していたら、「お前の愛読書は何か」っていうから、「(アンドレ・)マルローの『征服者』だ」って答えたら、「俺のバイブルだよ」って言ってさ。二人とも「アクティブ・ニヒリスト」だったんだろうな。、「自分はどうにもならん、自分たちもどうにもならん。どうにもならんけど、物事のジ・エンドがくるまではやって仕舞え」という気分だよ。

 自分たちの党派がいよいよ絶対的少数派になってきたときに、唐牛からまた聞かれたんだ。「お前、いまなに読んでるの?」って。「ヒトラーの『我が闘争』だよ」って答えたら、アイツが「俺も今読み終えたところだ」って驚いて言うんだ。くだらない本だと思ったし、観念を読んだわけじゃない。それでも、己の喧嘩というか、情念を掻き立てるには、マルクスの『資本論』なんか役に立たなかったんだ(笑)。60年安保のあとに、俺はうまい具合に沈没して、唐牛は(反共フィクサーとして知られた)田中清玄のところに行ったけれども、それも急にというわけじゃなかったんだね。

 イタリア・ファシスタたちに理想はあったのかもしれないけれども、俺というファシスタにはそれがなかった。希望があれば絶望したのかもしれないが、アクティブ・ニヒリストの俺にはそれもなかった。世間への不満というよりも、自分への不満のが大きかったしね。でも、思い出があるとしたら、その自分がガキだった時代だね。

◆「忘れ難き友人」としての清水丈夫と唐牛健太郎

 ’60年7月に逮捕され、ブントが国会の南通用門からの突入を試みた6・15事件など3つの裁判で被告人となった西部は、東京拘置所で約4か月半にわたり独房生活を送った。その後、娑婆に出たときには、ブントは3つに分散し、弱体化していた。そのなかにおいて、全学連書記局は「プロレタリア通信派」という派閥を形成していた。

 ’61年3月14日に、プロレタリア通信派の最終会合が、青木昌彦(スタンフォード大名誉教授になった数理経済学者、’15年没)の下宿で開かれた。煮詰まる議論を前に西部は「事、ここに至れば、各自それぞれに決意表明をして、プロ通派はひとたび解散ということにしようぜ」と述べた。

西部:ブントの連中で、何があっても日和らずに、不退転の決意で頑張ったのは、俺と清水なんだね。清水が「お前はどうするんだ」と言うから、「もしも、政治的に生き延びたければ、革共同に行くしかない」と答えた。俺としては、「もしも」という部分に力を込めたつもりだったんだが、伝わらなかったんだな。

 そのあとで、輪になって、一人一人がこれからどうするかを述べ合った。清水はそこで「革共同に行く」といった。あの時、「俺はいかないけど」と、もう一言いってやれていればな、と思うことはあるよ。俺もガキだったから、そこまで気がまわらないんだなあ。

 俺は、戦線逃亡すると公然と宣言した。3年間走り回っていただけだから、本でも読んで少しは考えようと思ったんだけど、まあ実際には、パチンコ生活に入って行くわけだからね。人生っていうのはつくづくうまくいかないな。

 その後、全共闘が暴れ始める前に、清水が家に訪ねてきたことがあった。’67年頃かな。疲れているというから、宿を手配してあげて、温泉に二人で入った。そうすると、清水が言うんだよ。「共産党と革マルをどうにかしたいから、いいアイディアはないか」って。俺は左翼運動にとっくに興味を失っていたのに、あいつのなかの西部像は昔のまんまだったんだ。

 唐牛のことも忘れ難い。彼は、革共同を経て、田中清玄のところに行き、紆余曲折のあとで、北海道で漁師になった。北紋別へ遊びに行ったとき、あいつは漁で一日帰ってくるのが遅れてて、唐牛の奥さんが一人で寂しく待っていた。あまりにさみしいからから、うちのカミさんに「いくら持ってるか」と聞いたら、「10万円」という。それで、近くの電気屋に電話してレコードプレーヤーを持って来させた。漁師の街だからね、北島三郎のデビュー曲を景気付けにかければ、と思ってね。

 それを唐牛が喜んでくれてな。北紋別を引き払って、東京に来る時もそれを持ってきて、自宅に人が来るたびに、「西部が買ってくれたレコードプレーヤーだ」って言っていたらしい。あいつが落ちぶれていくなかで、しっかりと付き合ったのは俺だけ、というのは確かだからね。人間が滅びていくのが、よくわかるからね。

 仲は良かったけど、生活が違いすぎた。唐牛は魚を釣って、酒場で喧嘩して、という毎日でしょう。半分は呑んだくれだからね(笑)。一方の俺は、30過ぎてからは、少しは物を読んで、考えなきゃ、というのはあったし。お互いにそんなことは言わなかったけどね。それでも、心は通じていたという実感はある。

 この歳になると、インテリ仲間よりも、呑んだくれの唐牛とか、(『友情』(ちくま文庫)で描いた元同級生でヤクザの)半チョッパリの上野とかとの交流の方が、なんか役に立つような気がしているんだよ(笑)。

◆チンチロリン生活に終止符を打った「連合赤軍事件」

 左翼運動を終えた西部は、「沈没」の時を経て、デカルトの「世間という書物を読む」という言のごとき日々を過ごした。大学に籍を置きながら、妻子を食べさせるために通産省の外郭団体でのアルバイト仕事に精を出したり、はたまた夜の街で「貧乏人の金のむしり合い」よろしくチンチロリンというサイコロ賭博に興じたりして時を過ごした。

 その後、ある応用問題の解法をつきとめたことで、東大教授で数理経済学の権威であった宇沢弘文からの評価を受けた西部は、’70年に横浜国立大学の助教授に就任した。その講義の内容は近代経済学の批判的解説を主としていたものの、自分が独自に進めていくべき確固たる学問の方向性が定まらずに茫漠とした気分でいたという。そんな西部を“本気”にさせたのは、’71年から’72年にかけて起きた一連の「連合赤軍事件」だった。

西部:左翼というものには、とうに興味を失っていたけれども、どこか野次馬的なところがあったんだな。あさま山荘での銃撃戦なんて、「もっとやれ!」と言いながら、テレビを見ていた。ハッとしたのが榛名山でのリンチ殺人事件だよね。そんな時にカミさんが、突然泣きだして、こう言うんだ。

「あなたは10年前、私の前から一度姿を消した時に、なぜ左翼を辞めるのかという私の問いかけに、『このまま行けば殺すか殺される。殺すも殺されるも覚悟の上だが、訳のわからないのが釈然としない』と応えた。その意味はこういうことだったとわかった」

 それを言われたときに、「あーあ、俺は(独房から出てきたあとの)10年間何をやってたんだろ」って思ったんだよね。運動の果てに、殺すか殺されるかの世界が待っているのはわかっていた。でも、共産党とは何か、革マルとは何か、ということさえ、一切思想的に検討せず、自分の中ではっきりとさせてこなかったんだな。

 大学に籍を置いて、数学をいじくっていて、カミさんと子供をを食わせるために頑張ってはいたけども、精を出していたのは主にチンチロリン(というサイコロを使った賭け事)ですからね。正直にいって、このままではマズイ、という思いに駆られたよね。

 それがきっかけで、自分を取り囲むものを、心理学的に、社会学的に、言語学的に、あるいは政治学的に解釈するために、ありとあらゆるジャンルの文献を渉猟しはじめた。だって経済学やってたって、自分の精神は立ち直らないだろう(笑)。

 ちょうど東大の教養学部に移ったのを幸いに、ワーッと3年くらい。それくらいじゃないかな、俺が本当に勉強したのは。そして、最初の本(『ソシオ・エコノミックス』中央公論社、1975年)を書いた。

 俺は、「人生に意義を感じれなくなったら、人間は死ぬべきである」という、アルベール・カミュの意見に全く賛成だったけど、しばらく生きてみなければ自分の人生に意義があるかどうかもわからない。それでも意義が感じられなかったら、カミュのいう通りにしようと思ってた。  

 でも、こいう流れで、本を書くことを覚えちゃったでしょ。そうすると、あるテーマが思いつくわけさ。書きたいかはわからないけど、書いてみようかなと思うものが。そうやっているうちに生きているという感じだったね(笑)。

◆夫の「東大辞職」を喜んだ妻の言葉

 アメリカとイギリスへの滞在を経た西部は、東大教養学部の教員として奉職する一方で、その言論活動を活発化していった。評論集『大衆への反逆』をはじめ、保守思想と大衆社会批判を根本に据た著作群が、この時期に発表されている。学会などには、一切に所属せず、「アカデミズムとジャーナリズムの相互乗り入れ」の総合的な文体を貫いた。

 社会科学科内の人事問題に端を発した「駒場紛争」が起きたのは、’88年だった。社会思想のグループに教員の欠員が生じ、ポストモダンの教員を呼ぶ方針となった。人事委員長に選出された西部は入念な段取りで、人類学者の中沢新一氏を念頭に置いた新人事を確定的にしたものの、学部全体の教授会での最終決定を前に状況は一変し、一部の教員による異様な反発により潰されてしまう。最高学府で起きた“烏滸の沙汰”を前に、西部は東大辞職を決意する。

西部:東大を辞めたいというのは、漠然と思ってはいたけれども、具体的な顛末というのは、あの通りなんだ(笑)。中沢(新一)くんは、思想的には敵方だからね。でも、自分の近くに敵がくるっていう自体が面白いことなんだよ。俺は昔からそういう性格で、味方になんかきて欲しくないだから(笑)。それで、人事を取りまとめるために、できるだけの努力をしたんだね。

 結局、学部内の異様な反発によって潰されて、俺も東大を辞める方向に動いた。そのとき、辞職を引き止めにきたある東大教授に、カミさんが言ったんだよね。「うちの夫が、このチャンスを逃すはずがありません」って。自分の夫は、野に放たれたほうがいいと思ったのかもしれないけど、最近になって、あの言葉はこんな意味だったんじゃないかな、なんて思うんだよね。

 あの人は昔から文学少女だし、札幌人で世間のことをよく知らないでしょう。気持ちの上では、「私がこの男を助けるんだ」って思って、北海道から出てきたんだ。助ける力なんてないのにね(笑)。でも、俺も頑張り屋だからね。アルバイトに精を出したり、東大の先生になったりして、家族をどうにか食わせてきたわけさ。

 俺の仮説だけど、カミさんは不愉快だったんじゃないかな。「何なんですかこの人は」って。食いっぱぐれの異星人みたいな変な奴を、私が助けるつもりできたのに、助けるタイミングが全然こないからさ。だから、俺が東大を辞めるかどうかというときに言った、「このチャンスを逃すはずがありません」というセリフの主語は、カミさん自身だったんじゃないかな。

 ようやっと、私の選んだ男は、19、20歳の私が思い描いた通りに、食いっぱぐれます、と。それを私が助けます、と。北海道人にはそういうの多いんだよ。打算ができないから、北海道に流れたんじゃないか(笑)。本人がどう思ったかどうかは、死んだ骨だから確かめようがないけど、そんな意味だったんじゃないかな、って最近になって思うんだよね。評論家になるってとき、これから暮らしていくのに、どれくらいの金額が毎月必要かなって聞いたら、「5万円」って言うくらいのカミさんだからね(笑)。

 そのあとで、雑誌を発刊したり、塾の運営をしたりしたけど、カミさんはすごく嬉しそうに手伝っていた。何でこんなことが楽しいんだろうって、こっちが思うくらいに。まあ、実質上はいてもいなくても、変わらない程度の手伝いだったんだけど(笑)。

◆単独を厭わず警笛を発した「構造改革」と「グローバリズム」

 東大辞職後の西部は、評論家となった。小説家の故・野坂昭如氏らと円卓を囲んだ「朝まで生テレビ」(テレビ朝日)への出演や、で不当なバッシングに見舞われていた元首相の中曽根康弘の応援演説という“肝試し”など、世事の真っ只中に身を投げ入れながらも、バークやチェスタトンなどを扱った『思想の英雄たち』をはじめ、保守思想の書物を書き続けてきた。

 ’94年には、月刊誌『発言者』を創刊(その後、『表現者』に改題し、現在はMXエンターテインメントから隔月で発行中)。構造改革とグローバリズムの虚妄に沸きたち、テクノロジーとマネーを追い求め狂騒する平成日本において、単独者たることを厭わずに、警笛を発してきた。

西部:雑誌を出したのは、ある建設関係の会社の社長とのやりとりがきっかけだったんだ。「こっちが雑誌を出したいと思っているのに、金を一銭も出さない。何が経済人だって」言ってやったら、「なら俺が出す」となった。

 それで動き始めたんだけど、肝心の金がこない(笑)。結局、最初に言っていた金額の半分しか出さず、しかもそのまた半分は借り入れということで話がついた。困ったとは思ったけど、こっちはもう旗揚げしているし、向こうには俺に金を出す法律上の義務はないから、仕方ない。これはもう突き進むしかないと。

『発言者』の発刊パーティでは、ある大出版社の社長が「こういうのは業界では3号雑誌といいまして」とぬかしたんだけど、もう23年続いているからね。俺も結構世間知があってね、雑誌がいかに厳しいかってことは知っているんだよ。瓢箪から駒ってあのことだぜ。

 雑誌の発刊を含めて、いままで言論活動を継続してきたわけだけど、グローバリズムだろうが、構造改革だろうが、孤立無援のなかで俺は本当に血相変えずに頑張ってきた。

 構造改革に反対する意味は簡単でね、レヴィ=ストロースの構造主義をはじめ、大半の学問分野で「構造」といえば、長い長い歴史に培われた自分たちの意識や心理の根本に立ち返ったときに出てくるものをさす。それは、少しずつは変えることができても、抜本なんてことをすれば、崩れてしまうものなの。それを分からなかったのは、アメリカなんですよ。

 アメリカの構造改革なんていうのは、工場やオフィスにコンピュータを入れようという、いわゆるコンピュータライゼーションに過ぎなかったんだよ。それが、日本に入ってくると、日本社会の構造がダメだから、構造を変えようってなった。オイオイ、って言ってきたけど、何の効果もなかった。結局は俺のいう通りになるんだよ。でも、俺とは何にも関係ないんだ(笑)。

 福田(恒存=英文学者で保守思想家)さんの話にこんなのがあった。ある人が家に尋ねてきて「最近、やっと先生の意見が受け入れられてきましたね」なんて言うんだって。それに対して、福田さんは「それは俺とは関係がない」とはっきり言うんだ。「世の中が変わって、そういう人が増えてきただけだって」ってね(笑)。彼が遺言的に残した「言論は虚しい」という言葉には、そんな想いも込められているのかもしれない。

 でも、俺は全学連をやってますから、言論に限らず、虚しいのは知っている。まあ、案の定、虚しかったと(笑)。そりゃ虚しいよ。でも、みんなこうだったんじゃないかな。いまから言えば、「福沢(諭吉)はこう言った、中江(兆民)はこう言った」なんていうのがあるのかもしれないけど、本人からしてみれば「ずいぶん前から言っているだろう!」とね(笑)。

 時代と真っ向から対立しながらも、決して怯まず、果敢に駆けぬきてきた。状況の真っ只中に身を置き、歴史の連続性の中に置かれた存在としての、自己と他者を見つめ続けた――。「未来への突撃」と「過去との対話」を繰り広げてきた、西部邁の78年は、やはり“ファシスタ”のそれだったのだと私は思う。そんな西部の人生がぎっしりと詰まった『ファシスタたらんとした者』は、先行き不明で度し難い現代社会を生きる我々一人ひとりに対する、ヒントでありエールでもあるのだ。

<取材・文/河野嘉誠>

【西部邁】

にしべ・すすむ●1939年北海道生まれ。東京大学経済学部卒業。東大在学中には、共産主義者同盟(通称:ブント)の中心的人物として60年安保に参加し、東大自治会委員長と全学連中央委員を兼務。その後、横浜国立大学助教授、東京大学教養学部教授を歴任。1988年に東大を辞職したのち、評論家となる。1994年に雑誌『発言者』を発刊。「朝まで生テレビ」(テレビ朝日)や自らがホストを務める「西部邁ゼミナール」(MXTVで放送中)などのテレビ出演でも知られる。著書に『経済学倫理学序説』(中公文庫・吉野作造賞受賞)、『大衆への反逆』(文藝春秋)、『生まじめな戯れ』(筑摩書房・サントリー学芸賞受賞)、『サンチョ・キホーテの旅』(新潮社・文部科学省芸術選奨受賞)など多数

ハーバー・ビジネス・オンライン

最終更新:7/12(水) 18:41
HARBOR BUSINESS Online