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江戸情緒と人々の思い―――名手が紡ぐ掛け替えのない物語 『ぶぶ漬屋 稲茶にございます』今井絵美子

7/12(水) 6:30配信

Book Bang

 さすが名手・今井絵美子である。本書を読むとそれがよくわかる。なにしろ二〇〇七年に第一巻、二〇一〇年に第三巻が刊行されたものの、中断されていた「出入師夢之丞覚書」が七年ぶりに蘇ったのだ。登場人物に対する思い入れが一際深い作者だけに気になっていたのだが、内容の深さ、成熟した人間観、物語の面白さといった点で、ずば抜けたものとなっており、作者の新境地を示している。新シリーズ第一巻を読んだだけでも、作者の代表的なシリーズものとなること間違いないであろう仕上がりとなっている。
 その理由から説明しよう。「出入師夢之丞覚書」は浪人夢之丞が息子の仕官を夢見る母真沙女にお尻を叩かれながら、生きていくために出入師という何でも屋をやりつつ、市井の人々と交流していく姿を人情味豊かなエピソードで綴ったものであった。つまり母と子の情愛とそれゆえの葛藤、庶民との交流の窓口を出入師という職業に設定した目新しさが肝であった。ところが本書ではその真沙女の生き方に変化が現れてきたことに夢之丞が気づく場面から幕が開く。ここに作者の深慮遠謀を見ることができる。
 作者はあとがきの中で「次は舞台を江戸の中心部に移し、武家出身の女主人公が料理に携わる人情シリーズはどうだろうか」という提案があった旨のことを記している。大ヒットとなった「立場茶屋おりき」の人気の秘密が料理であったことを考えれば当然の提案である。登場人物に思い入れの深い作者はこれを絶好の機会と捉え、リニューアルを決意。そこで思いついたのが、舞台や登場人物はそのままにして、周囲を取り巻く状況の変化により、母子が食べ物屋を開かざるを得なくなったという設定であった。ただ問題は真沙女の生き方では庶民相手の食べ物屋を営むのには無理があるという点である。幸いなことに第三弾『梅の香』の最終話では、真沙女がそれまでの仕官一辺倒の生き方に疑問を抱き始めている。これを足掛かりとして新たな道を歩ませる。もうひとつの関門は江戸料理ものが激戦区となっていることだ。新規参入で存在価値を主張できるシリーズにするためには独自性がなければならない。作者は工夫を凝らした構成でこの関門をクリアしている。実に巧妙な構成となっている。
 例えば第一話「燕来る」では、真沙女の生きる姿勢の変化を食べ物屋開設の過程に合わせて描いている点である。それはつまり武家としての精神の連続性しか念頭になかった真沙女が、市井に生きることを目指すことで、真の精神の連続性を息子と共有することに目覚めていく過程であった。第二話「ぶぶ漬屋 稲茶にございます」では食べ物屋の命名過程と登場人物の過去や特技を丁寧な筆致で描き、役割分担が立ち上がってくる仕掛けを施している。第三話「海原に小舟漕ぐ」では開店して間もない稲茶の商売の現況が語られているのだが、特筆すべきことは真沙女の経営哲学が熱っぽく描かれている点である。特に雇人に対する行き届いた配慮には瞠目すべき点が多々ある。そんな女将に亀爺をはじめとした雇人が自分たちの経験から得た商売のコツを披露することでチームワークが出来上がっていく様は読みごたえのあるものとなっている。「女将としてわたくしがやらなければならないことは、まずは女将である自分が稲茶に誇りを持つこと、そして、店衆一人一人を愛おしく思うこと、信頼すること」と真沙女が述懐する場面がある。現代の居酒屋のオーナーに聞かせたい言葉である。このあたりにも作者の批評精神を窺うことができる。最終話「さやけし」では稲茶の看板料理人であるお久米の相談事を中心に物語が展開する。このエピソードにより梅の木の根元に供養のために置かれた地蔵が、稲茶の守り神として機能していく余韻を持たせて第一弾の幕が下りる。見事としか言いようがない。
 つまり作者の狙いは開店までの過程を綿密に描くことで、他の江戸料理ものとの差別化を図るとともに、女将や雇人に対し、読者に親近感を抱かせることにあった。この工夫により稲茶は庶民の交流の場として、独特の存在価値を示すことになる。これに庶民の生きざまに触れる夢之丞の出入師としての職業がクロスオーバーして、濃密な人間ドラマを内包したエピソードが展開されるわけだ。
 もう一つ見落としてはならない読みどころがある。「立場茶屋おりき」や「髪ゆい猫字屋繁盛記」など作者の市井人情ものは現代に対する強いメッセージが織り込まれており、独壇場ともいえる光彩を放っていた。特に薄幸な子供を登場させるときにそれが発揮される。本書でもさらに成熟した筆力によって、挿入されるエピソードを引き締める効果を出している。子供が子供らしい活力を持って暮らせること、それが作者の祈りなのである。そのための出入師であり、稲茶なのである。
 もちろん江戸料理ものが看板だけにふんだんに登場する料理場面は、江戸情緒と四季の彩と稲茶の人々が込めた思いを満喫させてくれること請け合いである。この掛け替えのないシリーズが「立場茶屋おりき」同様、長命であることを祈願して筆を擱くことにする。

[レビュアー]菊池仁(文芸評論家)

角川春樹事務所 ランティエ 2017年8月号 掲載

角川春樹事務所

最終更新:7/12(水) 6:30
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