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法医学が未発達な江戸で相次いだ、妻による夫の毒殺

7/14(金) 12:00配信

BEST TIMES

『江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 陸尺(ろくしゃく)は、力仕事や雑役を仕事にする男のことである。『半日閑話』に、つぎのような話が出ている。

 文政二年(1819)の八月中旬、下谷あたりに住む陸尺が団子を食べて即死する夢を見た。
 翌日、陸尺は用事ができて浅草あたりに出かけたところ、若い男が目を血走らせ、必死になってあちこち人さがしをしている。人々が集まってきた。
「いったい、どうしたのかね」
「あたくしは薬屋でございます。さきほど、あたくしどもの店に、木綿の中形の広袖の着物を着た下男風の男が来て、『鴆毒(ちんどく)を売ってください』とのこと。鴆毒を売る際には相手の身元をきちんとたしかめるのがきまりなのですが、あたくしはそのとき、なにも聞かないままうっかり売り渡してしまったのです。あとになって気づき、こうして追いかけてきたのですが、見つかりません」
 男は憔悴しきった顔で戻っていった。

 そばで薬屋の話を聞いていた陸尺は、「物騒なことだな」と思いながら帰宅した。すると、女房が、「団子をこしらえたよ」と、食べるよう勧めた。陸尺はハッとなった。
 昨晩の夢といい、さきほどの薬屋の話といい、奇妙に符合している。その場は適当に誤魔化しておいて、女房が離れたすきを見て、下女にそっとたずねた。
「最近、木綿の中形の広袖を着た若い男に心あたりはないか」
「そういえば」
 下女は、下男がそんな着物を着ていたと告げた。

 すべてをさとった陸尺はさっそく手紙を書くと、女房に実家に届けるよう言った。実家はごく近所のため、女房がさっそく出向いて父親に手紙を渡した。父親が開封すると、そこには、「少々事情があり、女房を実家に帰す」という意味のことが書かれていた。
 驚いて、父親が娘にたずねた。
「夫婦喧嘩でもしたのか」
「いえ、なにもありません」
 娘の返事を聞いて、父親も陸尺の横暴に怒り、仲人に告げた。

 仲人がすぐに陸尺の家に駆けつけた。
「いったい、どんな落ち度があって、女房を里に帰すのですか」
「別段のことはありませんが、この団子を女房に見せて、おたずねください」
 陸尺が皿にのせた団子を渡した。やむなく、仲人は団子を持って女房の実家に帰り、「わけは、これを見せればわかるとのことでした」と、報告した。女は団子を見るや、わっとその場に泣き崩れる。
 父親と仲人から問いただされ、女はついに、「下男と密通し、邪魔になった亭主を毒入りの団子を食べさせて毒殺しようとした」と、すべてを白状した。

 父親は仰天し、あらためて仲人を陸尺のもとにやり、「離縁なりなんなり、おおせの通りにいたします」と、申し入れた。ところが、陸尺はこう答えた。
「事を荒立てるつもりはありません。女房を里に引き取ってもらえれば、それで結構です」
 この穏便な処置に、父親も仲人も安堵の胸をなでおろした。いっぽう、密通相手の下男は出奔した。

 陸尺は手紙をさらさらとしたためており、読み書きができる。家には下男や下女がいることから見ても、たんなる日雇いの人足稼業ではあるまい。おそらく、人からは「親方」と呼ばれるような身分であろう。

 戯作などにも妻が夫を毒殺する話は多い。不倫にともなう夫の毒殺はけっこう多かったようだ。
 法医学は未発達で、解剖などもおこなわれなかったため、たとえ毒殺でも食あたりで死んだなどと主張すれば、そのまま通用したのは想像に難くない。

文/永井 義男

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