ここから本文です

ワンマン経営の零細工場が抱える“爆弾”は、いつか弾ける

7/14(金) 15:50配信

HARBOR BUSINESS Online

 前回は、ブラック企業にならざるを得ない中小企業の内情を紹介したが、父が工場を閉めることになったのには、この他に2つの要因が存在する。そのうちの1つは、「ワンマン経営のもろさ」だ。

 筆者は大学生の頃、工場を継いでほしいという父からの真剣な頼みを、2回断っている。幼い頃から工場に育てられてはきたが、今まで目の当たりにしてきた男社会に入る覚悟が当時なかったことと、若いなりの夢があったことが大きな理由だった。

 それでも結局筆者は、大学卒業を待たずして、父の工場へ入社することになる。今回は、当時父の身に起きた事例に照らし合わせながら、ワンマン経営がゆえに起こり得る町工場の問題を綴っていこうと思う。

 大学の卒業式を1か月後に控えたある寒い日の朝、母親との無駄話を終え、自分の部屋に戻る階段を上がっている時、家の電話が鳴った。自営業の家庭にはよくある話なのだが、会社の始業時間前後にかかってくる電話には、毎度緊張させられる。そんな中でも、その日のベルはなぜか特別に胸騒ぎがした。

 ベルが止みしばらくすると、母の叫ぶ声がした。「父ちゃんが倒れた」という。慌てて車で会社に向かう筆者の横を、1台の救急車が走り去るのを見て、ハンドルを握る手が震えた。

 父が集中治療室にいた1か月、会社は大荒れだった。過去に突然の独立騒動があって以来、技術や経営のノウハウを外に漏らさぬようにと、工具を注文する店や、各取引先の受注担当者などといった企業秘密は、彼の頭の中にあったのだ。いわゆる完全なワンマン経営だったのだが、こうした父なりの会社を守る対策が、今回逆に仇となった。

 管につながれた父にはほとんど意識がなかった。筆者と母は、社長室の「痕跡」を頼りに何とか社長業を引き継ごうとするが、そもそも何が分からないのかが分からない。それらを見出す唯一の方法は、問題がそれぞれ深刻化し、表面化してくるのを待つことだった。

 注文先の分からない工具は、集中治療室へ持って行き、「父ちゃん、これどこで買うん?」と、ダメ元でちらつかせてみるが、「看護婦さん可愛いね」にも反応しない父に、こんな状態にまでなっても仕事をしてくれると思った自分が滑稽に思えた。

◆取引先には「父は長期海外出張中」と告げた

 最初に迫られた選択は、得意先へ報告するか否かだった。極小町工場の社長が倒れたとなれば、取引先が一気に離れていくことは目に見えている。

 話し合いの末、母と筆者、営業らは「社長は長期海外出張中でなかなか連絡が取れない」と、今思えば明らかに無理のある対応をすることで意見を合わせた。

 実際、父が倒れる2か月前、得意先を追いかけるように創った念願の海外支社が操業したばかりで、当初は取引先も納得していたが、それまでの取引先とのやり取りも、やはり全て父が担っていたため、しばらくすると「直接話がしたい」という連絡がくるようになる。

 次に襲ってきた問題は、受注した仕事の見積りだった。鉄の硬さや金型の形状まで、1つとして同じ条件のない依頼を、父は今まで、経験と各取引先の相場をもって1人で見積っていた。それが全くできなくなり、取引先には「社長が不在で見積もれないからご予算伺えますか」と対応するしかなかった。

 それは以後、同業界での無駄な価格競争を生むことになる。

 唯一救いだったのは、当時会社にいたヤンチャな従業員35人が、「会社を潰してなるものか」と活気立っていたことだった。未だかつて見たことがない団結力で、今まで以上に真面目に仕事に取り組んでくれた。1人ひとりが自分のできる最短納期を営業に伝え、社長の仕事を見よう見まねで引き継ぐ。父親がいかに信頼されていたかを改めて思い知った瞬間でもある。

 父の発症した病気は、くも膜下出血だった。寒いトイレで倒れたものの意識を取り戻し、社長室まで這って戻ると、内線で職人に救急車を呼ぶよう伝え、その後自ら家に電話をしてきた。そのため処置が早まり、幸い体に麻痺は残らず、1か月後には一般病棟に移ることができた。

 しかし、そのころから家族にはある不安が募るようになる。父の記憶力が弱いのだ。一過性のものだと信じていたが、結局父には「高次脳機能障害」という後遺症が残った。人により症状は様々だが、父の場合、記憶能力の欠如と、著しい感情の起伏が顕著に表れていた。

 高次脳機能の記憶障害は、健忘症と違い、見た目や自尊心は「元の社長」である。人と会話する仕草も健常者と変わらないし、社会復帰にも大変意欲的だった。が、やはり新しい記憶ができない。かかってきた電話に対応できても、切った直後に誰と話していたか忘れてしまう。

 それでも今まで散々心配させてきた取引先に、社長の健在ぶりを証明する必要があったため、父を電話に出さないわけにはいかなかった。捻り出した解決策は、電話にテープレコーダーを繋ぎ、後で筆者が内容を把握すること。ところがある日、得意先から電話がきた際、「録音」ではなく「再生」ボタンが押され、過去に取った会話記録が通話中に流れてしまう事態が起きる。これにより、本意ではない噂が広がり、得意先から不信感を抱かれたこともあった。

◆「俺だって好きでこんなんになったんやないわい」

 幸か不幸か、先述通り父には自尊心が残っていた。記憶のできない自分を認識できることは、本人にとって辛かったに違いない。

 そんな父の状態を分かっていたにも関わらず、未熟だった筆者は、大学卒業後に決まっていた留学が流れ、やりたくもない仕事をやらされているという現状と、2分おきに同じことを聞いてくる父に苛立ちが募り、ある日「同じことを何度も言わせるな。仕事の邪魔だ」と言い放ってしまう。

 その時漏らした父の言葉は今でも忘れられない。「俺だって好きでこんなんになったんやないわい」。

 跡を継ぐことを頑なに拒んでいた筆者に、初めて「限界がくるまでやっていこう」と決心させた瞬間だった。筆者が大型自動車やクレーンの免許を取ったのも、この頃である。

 こうして一通りの失敗を経験し、仕事の流れを把握するようになった頃、新たな問題が勃発する。

 今まで頑張ってきてくれていたある職人が、父の後遺症から会社の存続に危機感を抱き、会社を離れていったのだ。

 工場に残った不安感は感染し、離職の連鎖が生まれる。筆者もできる限りのことをしたつもりだったが、彼らにも生活や家族があり、不安になる気持ちは十二分に分かっていたため、無理に引き留めることもできず、ただただ自分の不甲斐なさを悔やんだ。

 それでも会社は続けざるを得なかった。海外支社を創った際にできた借金もあれば、未だ残ってくれている従業員もいる。皆それぞれが必死だった。

 その後、海外支社の閉鎖、円高やリーマンショック、下請けいじめなど、越えなければならない山は続いたが、父が倒れて10年余り、なんとか借金を完済し、残りの職人らが再就職先を得たのを見届けると、父の町工場は30年の歴史に幕を閉じた。

 中小零細の町工場には筆者の父のように、会社立ち上げ当初から自分の経験と勘、人脈だけでやってきたワンマン経営者が多い。それゆえ統率力が強く、「ワンマン経営=独裁」と捉えられがちだが、必ずしもワンマン経営が悪いわけではないと筆者は思う。特に、大企業よりも従業員1人ひとりにかかる仕事量や責任の比重が大きい下請け企業には、ワンマンでないと乗り越えられない危機や壁が幾度となく襲ってくる。

 しかし、ある程度会社が成長・安定してきたならば、経営方針を徐々にチーム型へと移行させることが、トラブルが起きた際、会社存続の鍵になるのは確かだ。工場閉鎖後、整理していた社長室の棚から、父が覚えたてのパソコンで入力した数十枚に及ぶ「技術マニュアル」が出てきた時には、「ちょっと遅かったな」と思わずにはいられなかった。

 あの時、筆者の見た従業員の団結力は、日本のモノづくりの現場がまだまだ捨てたものではないことを教えてくれた。日本の技術を支える中小零細企業。そこで働く経営者と従業員が、互いにより尊重し信頼し合うことで、無駄に消えずに済む工場は増えると、筆者は信じている。

<文・橋本愛喜>

ハーバー・ビジネス・オンライン

最終更新:7/14(金) 15:50
HARBOR BUSINESS Online