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大野智主演『忍びの国』はなぜ“信念なき忍者たち”を描いた? 中村義洋監督の狙いを読む

7/15(土) 6:00配信

リアルサウンド

 ある種の“変わり身の速さ”を忍者の持つ特権性とするならば、この映画に登場する人々は全て何かしら忍者的なところがあると言わざるをえない。

 もちろん、その生き方を是として育ってきた生来の忍者たちは、もはやこの地(伊賀の里)でそうやって生き延びることに何の違和感も差し挟んでいない。それに大野智が演じる最強の忍者“無門”ほどのレベルになると報酬次第で気分も性格もコロリと変わり、顔見知りの相手を瞬殺することに何のためらいも見せないのだから、まさにこの男、“虎狼の族(やから)”を象徴するキャラクターと言えるだろう。

 また、本来ならその生き方と対極にあるはずの武士たちでさえ、この時代、昨日の主君が今日の敵であるという現実を受け入れる必要がある。新しい主君のもとで古い主君を斬ることを強いられる二人の登場人物も同じだ。

 いささかコミックリリーフ的なところのある長野左京亮(マキタスポーツ)はもとより、心技体に優れ武士の鑑ともおぼしき日置大膳(伊勢谷友介)に至っては、自分が長年持ち続けてきた“武士らしさ”の美学から遠く離れた位置に立っている現状を認識すればするほど、ただ黙って苦虫を噛み潰すかのような表情を決め込むのみ。忍びのことを血も涙も無い“虎狼の族”と罵ると、その言葉はブーメランのように自分へ返ってくることは自身がよく知っている。

 時は戦国。平和や安定からは程遠い時代である。もしかすると自分の思うままの道を、微塵のブレもなく突き進むことができたのは織田信長くらいではなかったか。しかし、そうであるがゆえにこの信長という男は、こと映画『忍びの国』においてワンシーンたりとも描く価値のない“用なし”の存在であると言える(現に、本作に信長は登場しない)。他にも自分の信念を固持しようとする人間は映画からあっという間に消え去っていく。「人はブレて、変わりゆくからこそ面白い」という作り手の声が聞こえてきそうだ。

 その意味で本作は無門(大野)、下山平兵衛(鈴木亮平)、大膳(伊勢谷)といった主演級の三つのタイプの俳優たちが、あたかも三面鏡に映る像のごとくそれぞれの立ち位置でブレて、葛藤し、やがてそれぞれの答えにたどり着く。その結末も三者三様だ。ある者はそれによって身を滅ぼすことになるかもしれないし、故郷を捨てることになるかもしれない。大切な人を失う悲劇が待っているかもしれない。または空っぽのように感じていた自分の中に、思いがけない信念を発見することさえあるかもしれない。

 彼らの周囲にも葛藤する者の輪は広がっている。“武士チーム”の最も高位に君臨する織田信雄(知念侑李)だって、偉大な父を意識しすぎるあまり、その幼さや浅はかさがあらわとなり、次第に家臣たちの信頼を失いゆく。が、その“身の丈に合わない自分”を演じ続ける苦しさを吐露することで急激にその求心力を回復することとなる。彼もまたこの伊賀攻めを通じて大幅な“変わり身”を遂げていく人物。無門によって序盤に殺されていてもおかしくなかった彼だが、こうして家臣たちのもとで変わりゆくからこそ、父・信長とは真逆の、本作において描くに値する重要人物たりえているのだ。

 さらに、のっぴきならない具合に本作を面白く彩るのが、タヌキ親父たちの存在である。立川談春、でんでん、きたろうといった当代随一のタヌキ俳優たちが好演する十二家評定衆は、その表情や所作から一向に真意が汲み取れず、観客の読みも飄々と交わされ続ける。果たして彼らは変わり身を遂げているのか、それともそのフリをするだけで、自分たちは一歩も動かず、中身は何ら変わらぬタヌキそのものなのかを我々はしかと見届けなければならないだろう。

 中村義洋監督は、人々が変わり身を駆使しながら死に物狂いで生きる様を、そうでなければ生き残っていけない当時の世情を、ユーモアとアクションをたっぷりと交えながら、ノリ良くテンポよく次々と繰り出してくる。中村作品にハズレなし。エンタメ路線のど真ん中を堂々とした采配ぶりで攻略していく様はさすがだ。

 が、中村作品には気が抜けないところもある。信念を持たない忍者たちが、その場の状況や空気に合わせて態度を変える様は、時に非人間的な、魑魅魍魎(ゾンビ)のように思える節さえあるものの、彼らの生きざまがどこか現代人にもDNA的に受け継がれている部分があるらしいことを、中村監督は思いもよらないワンシーンで示唆しながら観客の急所を“ひと刺し”してくるのである。その刹那、胸の中にザワザワした思いを抱えてしまう人も多いはずだ。

 あるべき自分の姿をめぐって揺れて、慟哭し、また揺れまくる。この本格的な時代劇でうごめく登場人物たちは、数々の中村監督の現代劇で描かれるキャラクターたちとさほど変わりはないのかもしれない。そしていつしか無門というキャラクターも、一つの思いを胸に刻んでこのスクリーンから旅立っていく。それは変わり身の終わりを意味するのか、それとも新たな変わり身の始まりだろうか。答えはない。代わりに響く山崎努の語りが、雲の切れ間から差し込む光のように一瞬だけ慈愛を伴って感じられた。

牛津厚信

最終更新:7/15(土) 6:00
リアルサウンド

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