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【テレビの開拓者たち / 浜口哲夫】「家族対抗歌合戦」プロデューサーが目論む“テレビへの恩返し”

7/16(日) 20:00配信

ザテレビジョン

タレントとその家族が歌合戦を繰り広げるという老若男女が楽しめる内容と、この番組で初めて司会を務めた“欽ちゃん”こと萩本欽一の軽妙なトークで、まさに一世を風靡したバラエティー番組「オールスター家族対抗歌合戦」(1972~1986年フジ系)に放送開始から終了まで携わり、また1987年からはスポーツ局に異動、「プロ野球ニュース」(1961~2001年)、「F1グランプリ」(1987~2011年)といったフジテレビの人気スポーツ番組を手掛けてきた浜口哲夫氏。名プロデューサーの常田久仁子氏と萩本欽一からバラエティー制作の基礎を学んだという彼は、これまでどんな思いでテレビ番組を作ってきたのか。現在も、自らの番組制作プロダクションを立ち上げ、現役のテレビマンとして活躍し続ける彼に、当時のエピソードや、テレビメディアに対する思いなどを語ってもらった。

「オールスター家族対抗歌合戦」のみならず、数々の歌番組やスポーツ番組を手掛けてきた浜口哲夫氏。「第6回FNS歌謡祭」(1977年フジ系)ではプロデューサーを務めた

■ フジテレビに入社して3カ月で辞めようと思ったんですよ

──浜口さんが作り手として初めて関わった番組は何だったのでしょうか?

「僕は、1968年にフジテレビに入社したんですが、『スター千一夜』(1959~1981年)という番組にADとして入ったのが最初ですね。もちろん下っ端からのスタートだったんですけど、現場は汚いわ、何日も家に帰れないわで、散々な目に遭って(笑)。与えられる仕事も、弁当の手配やゲストの送迎車の手配といった雑用ばかりで、何も教えてもらえない。だから、入って3カ月くらいで辞めようと思ったんですよ。それで上司のところへ行って、『もっとちゃんとした仕事がしたい』と直談判をしたんですね。そうしたら『じゃあ明日からPD卓(演出家が座る席)に座れ』とか、『キャスティングを任せよう』とか、『美術セットをやってみるか?』とか、次々に言われて。その都度『そんな仕事はやったことがないからできません』って答えていたら、突然ひっぱたかれて怒鳴られたんです。『おまえは何もできないから今、勉強中なんだ! 勉強とは自分でするものなんだ!』と。『教えてもらおうとか、言われた通りにやっていればいいとか、そんな受け身の姿勢でいたら、いつまで経ってもおまえは何もできないままだ。いい仕事はできない』と本気で怒られて。そのときに、自分の考えが間違っていたことに初めて気が付いたんです。そこからは、早く認めてもらおうと、腹を決めて一生懸命仕事をしました。あのときのことはいまだに忘れられないですね」

──その後、萩本欽一さんの盟友である常田久仁子プロデューサーの班に入られたそうですが。

「常田さんは、浅草の劇場で活躍していたコント55号をテレビの世界に引っ張ってきて、その後、欽ちゃんと一緒に数々のヒット番組を作った名プロデューサーです。僕は常田さんと欽ちゃんから、“ディレクターとは何か”、“演出とは何か”、そして“笑いとは何か”、“笑いを作る上で何が大切か”、そういったバラエティー番組作りの基本を徹底的に仕込まれました。常田さんと欽ちゃんは僕にとって神様のような人です。

そのころ、僕が出した番組の企画が初めて通ったんですよ。それが『芸能人オールスター夢の球宴』(1971年)。企画が動き出したときは、周りから『絶対無理だ』と言われたんですけど、逆に『よーし、やってやろう!』と。『スター千一夜』をやっていたおかげで、いろんな事務所とお付き合いがあったので、出演交渉はスムーズにできて、ありがたいことに、あっという間にキャスティングは整ったんですね。でも、芸能人が野球をやるだけじゃバラエティー番組としては物足りないので、セレモニーをショーアップしたり、各イニングの間にベンチの上で応援合戦をやったり、自分なりに工夫を凝らしました。すると、いざ放送してみたら、大当たりしたんですよ、これが(笑)。バラエティー番組を作る面白さを初めて実感できたのは、この『夢の球宴』のときだったと思います。やはり、常田さんや欽ちゃんの教えがなければ、あの番組は作れなかったでしょうね。あと、入社3カ月目に僕をひっぱたいてくれた上司の存在も、もちろん大きいんですけど(笑)」

■ 「オールスター家族対抗歌合戦」は“家族のドキュメンタリー”

──浜口さんの代表作である「オールスター家族対抗歌合戦」は、どのような流れで始まったのでしょうか?

「当時の日曜夜8時は、NHKの大河ドラマと日本テレビのプロ野球の巨人戦の2番組で、60%くらいの視聴率を持っていかれていて、残りを他局で奪い合うという形だったんです。で、当然ながらフジの番組も長らく1ケタが続いていた。そんなときに、常田さんが単発の特番で『オールスター家族対抗歌合戦』を作ったんですが、これがかなりの高視聴率を獲りまして。その後すぐに、常田さんがこの番組を日曜夜8時のレギュラーにしたいと編成に売り込んで決まった番組なんです。1972年の10月から始まって、すぐに13~14%まで行って、1年後には20%を超えていました。僕もディレクターの1人として、すごくうれしかったのを覚えています」

――その後、浜口さんがプロデューサーを務められることになったのは、どういった経緯で?

「番組が始まって2年目ぐらいで、常田さんが欽ちゃんと『欽ドン!(欽ちゃんのドンとやってみよう!)』(1975~1980年)を始めることになって。ある日、常田さんに呼ばれて言われたんですよ、『“家族対抗”はあなたに向いてると思うから、あなたにあげる』って(笑)。その一言を残して、常田さんをはじめ『家族対抗』のスタッフが、みんな『欽ドン!』に行っちゃった。僕も『欽ドン!』に参加するつもりでいたんですけど、僕1人だけが『家族対抗』に残ることになったわけです。それで、スタッフを改めて組み直して、僕がプロデューサー・ディレクターとして番組作りの全ての責任を持つことになりました。まだ20代のことで驚いたし、プレッシャーもありましたけど、やりがいはありましたね。その後、1986年に番組が終わるまで、1本も休まずに自分で制作しました。出演交渉では、やはり『スター千一夜』で培った芸能事務所とのつながりが役に立ちました」

──「オールスター家族対抗歌合戦」が多くの人に支持を得た理由はどの辺にあったと思いますか?

「出演する方々が『故郷から出て来た両親と久しぶりに会えてうれしい』とか、『歌の練習で子供と密着できた』とか、『家族が団結した』とか、出演を楽しんでくれる、喜んでくれる。そのことこそが、この番組の大事なところで、この番組の本質は“家族のドキュメンタリー”だと思うんです。普段は忘れてしまっている家族のありがたさに気付く。当時から核家族化は始まっていましたが、われわれスタッフは、出演者の皆さんにそんな貴重な時間を楽しく過ごしてもらうことを何より大切にしていました。それともう一つ大事にしていたのは、人は歌を歌うと楽しい気分になれる、ということ。歌って素敵だよね、楽しいよね、という喜びと、家族の絆。この2つは、どんなに時代が変わっても変わることはない。これはテレビエンターテインメントの本質だと思うし、当時からこだわっていましたね。

あの番組のトークって、欽ちゃんが何を聞くのか、ゲストがどう答えるのか、話がどう飛んでいくのか誰も分からないんですよ。今では全てのカメラの映像をデータ化して、それを後から編集できますけど、当時は一つの映像しか保存できないので、その瞬間瞬間の表情を見逃さずにしっかり拾わなければならない。だから収録は毎回、生放送のような緊迫感がありました」

■ テレビは未来永劫メディアのヒーローであってほしい

──その「オールスター家族対抗歌合戦」は昨年、BSフジで30年ぶりにスペシャル番組として復活を果たしました。8月19日(土)には待望の第3弾が放送されますが、久しぶりに「家族対抗歌合戦」を制作してみて、いかがですか?

「出演しているのは今の芸能人だし、歌う歌も30年前とは違うし、今の時代の番組として成立させるために、それなりの工夫は必要だと思いますが、ポリシーは絶対に変えちゃいけないと思っていて。30年ぶりにやらせてもらえて本当にありがたくて、当時大事にしていたコンセプト、手法は変えずにやっています。ただ、何か一つ当時に戻りきれない部分があって。今まで2回やりましたけど、その正体不明の壁が、いまだに破れていないんですね。昔のように、熱気があって爆発しそうな本番の感覚がどうすれば戻ってくるのか、今模索しているところです。

それと同時に、70歳を越えた今の僕の感性や価値観がまだ通用するのか、チャレンジしているという意気込みも当然あります。こういう番組は、『NHKのど自慢』(NHK総合ほか)と同じように、ずっとやっていてもいいんじゃないか、もっと言えば、いつまでも続くべき番組なんじゃないか、と。30年前、まだ視聴率はそこそこ獲れていたのに、いろいろと考えて終わらせることを決断したんですけど、あのまま続けていてもよかったのかなと思うことも正直あるんですよね」

──80年代後半以降は、浜口さんはスポーツ局へ移られて、「プロ野球ニュース」や「F1グランプリ」などを手掛けられました。また2000年代に入ってからは、社団法人デジタル放送推進協会(D-pa)の理事に就任。地デジ推進のための諸策に携わられました。

「1987年にスポーツ局に異動、『プロ野球ニュース』の世代交代を命じられました。90年代になって、それまでプロ野球一辺倒だった『プロ野球ニュース』を、モータースポーツ、サッカー、格闘技、陸上競技、そのほかスポーツ全般を扱う情報番組として構造改革をしました。その後、2003年にデジタル推進協会に移って、テレビがメディアシステムとして生き残れるかどうかという分水嶺だった“2011年完全デジタル移行”という大仕事に関わりました。いずれも、自分の職歴としてはうれしい話ですよね。バラエティー20年、スポーツ15年、最後の10年はデジタル移行と、テレビマンとしてとても充実した日々を過ごさせてもらったと思っています。

だからこそ僕は、テレビが廃れていくのは嫌で、テレビには、未来永劫メディアのヒーローであってほしいんです。まだまだテレビに対する社会のニーズはあると思うし、社会への影響力もあると思う。作り手も、テレビの可能性をもっと探っていかないといけない。僕自身、テレビが世の中に貢献するために何が必要なのか、今後もいろいろと提言していきたいと思っています。実は僕、テレビ制作の仕事から離れたら、テレビ評論家になりたいと思ってるんです(笑)。それが結果的にはお世話になったテレビ界への恩返しにつながっていくと思うので」

最終更新:7/16(日) 20:00
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