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「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」の山中鹿介幸盛が謀殺される~今日は何の日

7/17(月) 12:10配信

PHP Online 衆知(歴史街道)

天正6年7月17日

天正6年7月17日(1578年8月20日)、山中鹿介幸盛が護送途中に毛利方の手によって謀殺されました。「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った、尼子の勇将として知られます。
鹿介は「鹿之助」と表記されることも多いですが、それは後世、『尼子十勇士』などの講談本などで広まったもので、本人は「鹿介」と記していました。生年については天文9年(1540)説と天文14年(1545)説がありますが、ここでは天文14年生まれとしておきます。
鹿介は月山富田城北麓の新宮谷で、尼子氏重臣・山中満幸の次男に生まれました。出雲の尼子氏といえば、尼子経久の時代に中国地方を席捲し、大永元年(1521)頃には「十一州の太守」と呼ばれるに至った中国地方最大の大名です。しかしその後、傘下の毛利氏が大内氏に鞍替えし、家中の内紛もあって勢力が後退。経久の次の晴久の代には、天文9年に毛利元就の居城・吉田郡山城を攻めますが、逆に大敗を喫し、元就の武名を高めることになりました。鹿介が生まれたのは、そんな時期です。
弘治2年(1556)、12歳の鹿介は晴久の嫡男・義久の近習に召し出され、永禄3年(1560)、16歳で家督を継ぎました。この時、山中家重代の甲冑を譲り受けますが、兜には三日月の前立と鹿角の脇立がうたれており、一説に鹿介の名はそれに由来するともいいます。同年、義久が家督を継承して尼子家当主となると、伯耆国の尾高城を攻めます。鹿介もこれに従い、勇名高い菊池音八を討ち取って、見事に初陣を飾りました。しかし永禄5年(1562)、毛利元就の出雲侵攻が本格化し、要衝の一つ白鹿城を大軍で囲まれます。白鹿城を奪われれば、月山富田城の防備が崩れかねません。この事態に、軍議の席で鹿介は「援軍には我等近習並びに馬廻衆をお遣わし下さい。重臣方では勝ちは覚束ぬと存じます」と言ってのけ、重臣らの怒りを買いました。鹿介の進言は退けられますが、結果は危惧した通り援軍に失敗し、城を奪われます。鹿介は重臣たちの戦意の低さを見抜いており、尼子を支えるのは自分たちしかいないという意識を持ち始めていました。
さらに永禄7年(1564)、 毛利元就はついに月山富田城を囲みます。鹿介は毛利方の品川大膳が たらの木狼之介と名乗っての一騎討ちに応じ、これを討ち取って「石見国より出た狼を、出雲の鹿が討ち取ったり」と叫んで、味方の士気を鼓舞しました。しかし、長引く籠城に食糧も枯渇し、重臣たちからも脱落者が続出、永禄9年(1566)、義久は毛利に降伏して、戦国大名・尼子氏はここに滅びます。
しかしそれは同時に、尼子家再興を志す鹿介の戦いの始まりでした。 永禄11年(1568)、牢人となった鹿介は、尼子誠久(さねひさ)の遺児・勝久が京都で仏門に入っていたのを還俗させ、旗頭とします。そして翌年、尼子遺臣を糾合し、出雲・新山城に拠って、毛利の城を立て続けに16も抜いて出雲をほぼ席捲しました。しかし目標とする月山富田城の奪還は成らず、毛利軍との戦いに敗れ、伯耆の末石城で鹿介は毛利軍に降伏します。鹿介の身柄は尾高城に送られますが、赤痢と偽って何度も厠に通い、城兵を油断させて厠から脱出するエピソードはよく知られるところです。
元亀3年(1572)、28歳の鹿介の姿は因幡にありました。因幡の山名豊国と連繋しての出雲奪回を策す鹿介は、豊国に背いて鳥取城に拠る武田高信を尼子旧臣らとともに降し、豊国を鳥取城主とします。また京都で織田信長に拝謁、中国攻めの先鋒を引き受けました。しかし山名豊国が毛利と結んだため、鹿介はまた一から出直しです。
元亀4年(1573)、勝久を奉じて因幡に攻め込むと、鹿介は毛利方の城13を10日間で落としてのけ、さらに毛利の重臣が拠る鳥取城を攻略しました。山名豊国は城の返還を条件に味方を打診、鹿介は承知し、天正3年(1575)には若桜鬼ヶ城も攻略。尼子は因幡の東半分を確保します。
しかしそれも束の間、吉川元春、小早川隆景らの反撃に敗れ、鹿介らは再び脱出しました。 天正5年(1577)、信長配下の羽柴秀吉が播磨に進攻すると、鹿介らもそれに参加。そして播磨西部の毛利の拠点・上月城を鹿介らが落とすと、尼子主従で城の守備を任されます。しかし翌年、東播磨の別所氏が織田に背くと、同時に毛利の大軍が上月城を囲みました。秀吉は救援に向かおうとしますが、信長から別所攻略を優先せよと命じられ、鹿介らは見捨てられることになります。尼子勝久は自らの切腹と引き換えに城兵を助けるよう敵の吉川元春に約束させ、7月8日に切腹。城は落ち、尼子氏も滅びました。鹿介は捕えられ、護送される途中、備中高梁川の阿井の渡しで刺殺されました。享年34。
毛利は不屈の鹿介を恐れたのです。しかし鹿介の遺志は、娘婿の亀井茲矩(これのり)が受け継ぎ、秀吉のもとで尼子旧臣とともに毛利と戦い続け、鹿野城主となります。鹿野には鹿介を弔う幸盛寺が建立されました。鹿介の志もようやく遂げられたのかもしれません。

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