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小野寺系の『メアリと魔女の花』評:“ジブリの精神”は本当に受け継がれたのか?

7/17(月) 10:00配信

リアルサウンド

 近年、新作を作る度の風物詩となっていた、宮崎駿監督の「長編引退宣言」。『風立ちぬ』完成時にも、本人が「またかと思われるかもしれませんが、今回はマジです」と言いながら、その後また撤回されたわけだが、スタジオジブリの製作部門は、復帰宣言の前に本当に解体されてしまった。

 『魔女の宅急便』で動員数200万人を突破してから、安定的に大ヒット作品を連発、「ジブリブランド」を確立し、国内の劇場アニメのシェアを握ることになっていった、スタジオジブリと宮崎駿。スタジオ解体という状況のなかで、日本の多くのアニメーションスタジオは、その王国に成り代わることを望み、アニメーション監督は、「ポスト宮崎」という玉座をねらう事態が起きている。

 そこで注目されていたのが、スタジオポノックである。『思い出のマーニー』でコンビを組んだ西村義明プロデューサーと米林宏昌監督、従業員の8割がジブリの作品づくりに関わってきた人たちが集結したという、この新しく設立されたスタジオは、最もスタジオジブリに近しい存在であるはずだからだ。

 だが、完成した記念すべき第一作、『メアリと魔女の花』を公開初日に劇場で見た私は、絶望的なまでに作品が面白くないことに驚愕してしまった。この作品を褒めてしまっては、信用問題に関わると思ったほどだ。映画評論は、映画の魅力や面白さを伝える役割がある。だが作品が全く面白くない場合、言葉を尽くして理由を述べて、駄目なものをしっかりと駄目だと伝えるという使命もある。今回はあえて、『メアリと魔女の花』の駄目なところをじっくりと多角的に語っていきながら、アニメーションの未来を考えていきたい。

■「ジブリの精神」は受け継がれたのか

 「ポノック」という、「深夜0時」を意味するスタジオ名には、「ゼロからの挑戦」という意図が込められているという。だが同時に、西村プロデューサーは「ジブリの志、精神を受け継ぐ」とも表明している。これは、「会社としてはジブリから離れてやっていくが、作風はそのままでやっていきたい」ということだろう。 動画枚数が9万枚を超えていることからも、ジブリが目指してきた「フルアニメーション」を、引き続き志向しようとする意志が見える。

 『メアリと魔女の花』は、絵柄のみならず、多くの描写が、これまでのジブリ作品を想起させるものになっている。上映が始まり、スタジオジブリのトレードマークであるトトロの横顔を模した、少女メアリの横顔が表示された時点で、この作品の「ヤバさ」がすでに漂ってくる。少女の顔をスタジオの象徴にするというセンスはともかくとしても、こういったパロディーを面白いと思っているユーモア感覚に不信感を覚えてしまう。それは、『魔女の宅急便』を意識した「魔女、ふたたび。」という煽りを、『メアリと魔女の花』のキャッチコピーに選んだセンスとも通底している。

 そのマークが象徴するように、劇中では、雲の上のお城で冒険する『天空の城ラピュタ』、動物たちが駆け回る『もののけ姫』、『借りぐらしのアリエッティ』でも引用した、少女が大粒の涙を流す『千と千尋の神隠し』、魔法使いの戦いを描く『ハウルの動く城』など、強引なまでにジブリ作品を思わせるような要素が散りばめられている。本作は英国の児童文学が原作となっており、たしかにジブリ映画のような要素は多く含んでいる。しかし、それを全力でジブリ的な表現に引き寄せているので、とりわけ宮崎作品のダイジェストを見せられているような気分になってくる。

 たしかに宮崎監督自身も、マックス・フライシャーやレフ・アタマーノフ、メビウスなど、自身が見てきた世界中の様々なクリエイターの作品を、そのまま自作でパロディー化してしまうことが多い。しかしそこには、その描写に至るまでの作家的な必然性や、作家自身が面白がっていることを皮膚感覚で理解できるものになっていたはずだ。しかし、『メアリと魔女の花』の既視的描写というのは、そのような作家性が熱くほとばしってくる発露というよりは、ひたすら義務的で冷めきったものに感じられるのだ。

 実績のない新しいスタジオが、資金を集め大ヒットを狙っていくためには、プライドを捨てスタジオジブリ出身というアドバンテージを最大限に利用し、古巣におんぶ、抱っこをして人気を集めるような演出をやらざるを得なかったというのも、理解できなくはない。だが、ここまでの過剰なジブリファンへのサービスを、果たして観客側は望んでいたのだろうか。そして最も深刻なのは、そこまで泥臭く、不自然な印象を与えてまで挿入した描写一つひとつが、作品の面白さに寄与できていないという点である。

■「この映画はいつ面白くなるのか」

 例えば、メアリが手から落としたものを家政婦がキャッチしたシーンを思い出してほしい。また、メアリが落ち葉のかごをかぶるシーンや、魔法大学の用務員がくどくど説教をする場面を思い返してほしい。私は一瞬、意味がよく分からず戸惑ってしまったのだが、よくよく考えたら、これらはどうやら性格の紹介とともに、ユーモアを発揮しようとしている箇所らしいのだ。見ている側が、「おそらくこれはギャグなんだろう」と、曖昧な表現の意味を推測しなければならないくらい、演出が機能していない。高畑・宮崎監督はもとより、一定水準以上の製作体制を持つ商業作品のなかにおいて、このような伝わりづらい演出があるというのは稀(まれ)だ。

 不可解な人物描写も多い。例えば、誤って花を折ってしまうメアリに、冷たい言葉を言い放つ庭師の老人というのは、一体何のために登場したのだろうか。学校が運営されているアリバイを作るために描かれているように見える魔法大学の学生たちは、完全に「動く背景」でしかないと感じるし、重要なキャラクターとして扱われている少年ピーターに至っては、「一見いじわるだけど、実は割といい奴」ということ以外には、どんな人間なのかがほとんどよく分からない状態で、かなり長い時間、画面に映り続ける。

 だがこれは、事前に十分予想できた事態である。何故なら、米林監督の、面白味のないファンタジーである『借りぐらしのアリエッティ』もそうだったし、無口な老人の存在意義などがいまいち希薄だった『思い出のマーニー』もそういう作品だったからだ。このユーモア感覚の欠如や、人物描写の拙さというのは、娯楽作品を手掛ける資質としては致命的ではないだろうか。今まで米林作品で笑えたシーンというのは、演出が失敗して不自然な描写になってしまっている箇所くらいなのだ。

 中途半端になっているのは、ユーモアだけではない。例えば、メアリがほうきにのって初めて空を飛んだとき、「あ、いよいよ面白くなるぞ」と、期待した次の瞬間には、とくに意外な展開も起こらず、粛々と次のシーンへ移行している。ギャグにしろアクションにしろ、面白くなりそうな予感が漂いだすと、すぐに失速してしまう。多くの娯楽的な映画作品では、考え抜いた様々なアイディアをアクションのなかに取り入れることで、観客の意識を作品世界に引き込み、楽しませようとする。米林監督は、公式サイトでも確認できるように、「『メアリと魔女の花』はドキドキとワクワクに満ちたエンターテインメント作品を目指します。」と明言している。本当にこれがそのような作品になっていると思うのであれば、あまりにも娯楽作品への理解が足りないのではないだろうか。

 私は、宮崎駿監督作『千と千尋の神隠し』が公開されたとき、大勢の子どもの観客が、千尋が階段を駆け下りるシーンで悲鳴を上げたり、ものすごく臭い神が現れる場面で大笑いしたりと、いままでの人生のなかで最もにぎやかな劇場体験をしたことを、印象深く覚えている。そのときに娯楽映画の、アニメーションの本当の力というものを実感したのだ。

 快・不快、そのどちらも与えられず、ただ淡々と進んでいくように感じられる米林作品を鑑賞しているとき、私は無味乾燥で荒涼とした空間に幽閉されているような感覚を覚える。

■世界や人間に興味を持たない映画

 それゆえに、本作が「シンプルで見やすい」と擁護する意見もあるようだ。だが私は、「シンプルである」ことと、「中身がないこと」は全く違うように思える。優れた作品は、シンプルな構成であっても、その背景には、思想や趣味、信念や美学に裏打ちされた「何か」が存在している。シンプルな抽象絵画を見て、「俺にも描ける」と、似たような落書きをした絵に、本質的な価値が宿らないということと同じだ。

 スタジオジブリが設立される前、その原点になったのが、ともに東映動画を退社した高畑勲と宮崎駿が、それぞれ監督とレイアウトを担当したTVアニメ『アルプスの少女ハイジ』の成功だといわれる。高畑監督は「天の時、地の利、人の和が揃った作品」と表現し、宮崎駿は「パクさん(高畑監督)の最高傑作」と述べる。 ともにアニメーションづくりに携わって、試行錯誤しながら積み上げてきた全てが結実した、頂点といえる作品なのである。

 『アルプスの少女ハイジ』の驚くべきところは、作品をしっかりと見た者なら、目をつぶっても頭のなかで、アルムの山の斜面を登り、ハイジの住む小屋の周りを歩くことができるようなイメージを与えられるところだ。それは、宮崎駿の超人的な空間把握能力による、立体的な画面づくりによるところが大きい。そしてもうひとつは、高畑監督による「生活を描く」という、作品づくりにおけるこだわりと信念が、圧倒的なリアリティを、演技やデザインに至るまで、作品全体にみなぎらせているという点だ。このように、従来の多くのアニメ作品を凌駕する圧倒的な達成によって、とことんまで「質」にこだわっていこうとする精神が確立したのだ。

 そのような精神が『メアリと魔女の花』に欠如しているということは、本作の時代設定の曖昧さや、生活描写の乏しさを見ても分かる。田舎の風景や魔法大学の校舎にも、そこで人が生きているという実感があまりにも薄い。「生活を描くことが人を描くことだ」という高畑作品の哲学を抜きにして、ステンドグラスやレンガ塀など、テーマパークのハリボテのように外形的にステキに感じる画面づくりを志向することで、そこに精神が宿るだろうか。

 こだわりを作るのは、作り手の文化的な教養や、人間への興味である。それがあってキャラクターにも命が通ってくる。この人はどんな人なのか。普段はどんな生活をしていて何を考えているのか。それが詳細であるほど、そして作り手の人生の実感と理解が込められているほど、そこに奥行きが与えられ、立体感を獲得していく。英国の文化や歴史、英国人やその生活について興味が全くないと思われる本作からは、キャラクターたちがどんな人間なのかが伝わってこない。だから感情移入することができない。彼らがただ淡々と動いているのを、機械的に眺めることしかできない。

■魔法を投げ捨てるスタジオポノック

 西村プロデューサーは本作について、「『魔女の宅急便』の逆をやろうとした」と述べている。その意味はおそらく、『魔女の宅急便』は「魔法を取り戻す」物語であり、『メアリと魔女の花』は「魔法を投げ捨てる」物語であるということだろう。ここでの「魔法」には、複数の意図が込められているようだ。

 ひとつは、宮崎作品が『風の谷のナウシカ』や『On Your Mark』などで描いたような、核のおそろしさや原発事故など、「文明の負の部分」への懐疑を、魔法というかたちで表したという点である。メアリは、「魔法なんか、いらない!」と、与えられた力を捨て去ることで、自分自身の力で歩き出すという成長を見せると同時に、現代の経済第一主義や功利主義を批判している。それはまた、『天空の城ラピュタ』における「滅びの呪文」のパロディーともなっている。これが本作の表のテーマである。

 裏のテーマとしては、魔法を投げ捨てることを、強大な存在であったスタジオジブリや、高畑・宮崎という巨人の影響から独立し、これからスタジオポノックは自分たちの力だけで頑張っていくという決意表明に見立てているということである。

 しかし、そこには疑問も生じる。「魔法」を手放す宣言をしたということは、もうこれからは、多くの意味でスタジオジブリには頼らないでいかなければならない。スタジオポノックに次作があるとすれば、「いらない!」と大見得をきった以上は、もうパロディーの連発はできないだろうし、宮崎駿や近藤喜文などによって確立されていったジブリのクラシカルな絵柄や雰囲気なども捨て去って、ジブリ作品だと錯誤されないようにするのが筋だろう。それがもしできなければ、「やっぱり、魔法…いるよね」ということで、『メアリと魔女の花』での宣言は嘘ということになってしまわないだろうか。

■見た目ではなく本質を受け継ぐこと

 高畑監督は、『かぐや姫の物語』でCGを駆使し、手描き技術をより引き立たせる方法を模索した。宮崎監督が製作している最新作『毛虫のボロ』は、初めて彼が全面的にCGを用いた作品になるという。なぜ彼らは今になって、このような新しい決断をしたのだろうか。単純な新技術への興味以外には、おそらく大きなふたつの理由が考えられる。それは、従来の製作方法では、自分のイマジネーションが十分発揮されないという不満がもともとあったということ、そして、ピクサー・アニメーション・スタジオなどの海外作品が、次々に表現力を進化させながら、驚異的なヴィジュアルを実現させていることである。

 彼らには、CGの本格導入において、はるかに海外に先を行かれている状況で、何かを変えていかなければならない、新しい表現を確立しなければならないという、作家としての現実を見据えた焦燥感と使命感があるのだ。

 そのように老いてますます若い感性を輝かせる両雄に対して、スタジオポノックは何をやっているのだろうか。古巣の絵柄、表現に固執し、「精神を継承する」と称して、ただジブリが確立してきたシェアを保持しようという、老人的な消極姿勢しか見えない。「ジブリ出身のスタッフは日本最高峰の技術を持っている」などというおごりがあるのだとすれば、すぐに時代遅れになって消えていくか、規模を段階的に縮小せざるを得ない運命にあるだろう。そうならないためには、何らかの改革が必要になるだろうことは明らかである。

 幸い、ジブリの両雄の精神を部分的に継承する才能は現れている。設定に病的なまでにこだわる片渕須直監督、凶暴な破壊衝動を作家性にした庵野秀明監督、ハイセンスで自由な発想を持つ湯浅政明監督などだ。また海外に目を移せば、すでにスタジオジブリが製作した、『レッドタートル ある島の物語』を手掛けたマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督や、ディズニーやピクサーの製作を統括するジョン・ラセター、さらにはブラッド・バード、ミシェル・オスロ、シルヴァン・ショメなどもいる。

 「ジブリは後継者を育てなかった」と、よく言われる。しかし、ジブリのような見た目ではなくとも、たとえ日本ではなくとも、ジブリの志は、精神は、多くの優れたアニメーション作家のなかに存在している。それで十分だと思うのだ。その意味では、現時点でスタジオジブリの製作部門は、しっかりと役割を果たし終えたといえるのではないだろうか。

小野寺系

最終更新:7/17(月) 10:00
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